う。
 眼をさましたのは、彼の自尊心と情熱だ。いや、彼にとっては、自尊心と情熱とは同じものを意味する。自尊心だけが彼の情熱をうみ出すのである。
 そして、この情熱は今陽子に集中されているのだ。
 彼が陽子の父の中瀬古鉱三に陽子をくれといったのは、最初鉱三を訪問した時に陽子が章三に見せた高慢な表情のせいだった。陽子の眉はひそめられたのだ。好悪感情のはっきりしている陽子は、章三のような男のタイプには好感が持てなかった。章三の全身にみなぎっている自尊心が、元来自尊心の強い陽子を反撥したのであろう。爪楊枝職人の息子は、侮辱されたと、誇張して考えた。そして、この考えが直ちに陽子へのだしぬけの求婚に移るところに、章三の面目がある。即ち、章三にとって求婚とは陽子を侮辱する最も効果的な手段であり、鉱三に対する軽蔑も少しはあった。もともと、章三は鉱三の如き政治家を、少しも尊敬していなかった。尊敬していないから、金を出したのだ。
 ところが、陽子は章三との結婚をきらって家出した。
 章三の自尊心は完全に傷つけられた。この爪楊枝けずりの息子は、爪楊枝の先ほどの情熱も感じていなかった陽子に、はじめて情熱を動かされた。
「よし、いつかはあの女をおれの足許に膝まずかしてやる!」
 自尊心のためには、どんなことをもやりかねない章三だった。陽子を屈服させるためには、どんな犠牲を払ってもいいのだ。しかし、たった一つ、払ってはならない犠牲がある。いうならば、自尊心だけは犠牲にしてはならないのだ。
 だから、昨夜田村の玄関で陽子を見ても、章三は追うて行こうとしなかった。自尊心が許さなかったのだ。
「しかし、あの女が京都にいると判れば、こっちのもンや」
 ぼやぼや寝てられんぞ、と章三は寝床の中で、今日これから成すべきことを考えながら、隣室の話声をきくともなしに聴いていた。

      二

「いい部屋じゃないの、この洋室。このままバーに使えるわね」
「使ってたのよ。ただのお料理屋や旅館じゃ面白くないでしょう。だから、バーっていうほどじゃないけど、まあ洋酒も飲めるし、女の子もサーヴィス出来るように、この部屋だけ特別に洋室にしたのよ。今はオフリミットになっちゃったけど、開店当時は随分外人も来たわよ。いい子もわりと揃えてたのよ」
「京都には女の子つきで一晩いくらっていう宿屋があるときいてたけど、ははアん……」
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