えっ……?」
「ねえ、行ってくれはる……?」
 甘えるように、体をすりつけて来た。
「でも、ここを逃げ出して行くわけにいかないわ」
「しかし、姉ちゃんは本当のブラックガールと違うさかい、明日になったら、すぐ出して貰えるわ。うちは泥棒したさかい、あかんけど、姉ちゃんは鳩やわ」
 飛んで出るから鳩だというチマ子の声の明るさに、陽子もほっと心に灯がともって、
「じゃ、ここを出たら、あんたの使をしてくれというわけね」
「モチ、コース……」
 モチは勿論のモチ、コースはオヴ・コース(勿論)のコース。綴り合せて、モチの論よという意味らしい。
「――うち、刑事にきかれても、あの写真機盗んだと白状せんつもりや。預かった品やと言うて頑張るつもりやねン」
「そんな嘘すぐはげるでしょう」
 陽子が呆れると、チマ子はじれったそうに、
「――そやさかい、行ってくれと頼んでるんやないの。その人の所へ行って、あの写真機はうちに預けた品やということにしてくれと、姉ちゃんから説き伏せてくれたらそれでええやないの」
「ふーん。でも、その人うんと言ってくれるかな」
「ええおっちゃんやさかい、うちを助けてくれはるやろ。一寸こわい所あるけど、親切な人やさかい。うち、今でも、あの人の写真機盗んだこと後悔してるねン」
「どこにいる人……?」
「行ってくれはる……?」
「それより、どこにいる人なの、それを先に……」
 言ってごらんと、一寸せきこむと、チマ子は場所をまず言って、
「木崎さんという人……」
「木崎……?」
 ルミから貰った名刺の「木崎三郎」の明朝《みんちょう》の活字が、ぱっと陽子の頭に閃いた。
「ねえ、行ってくれはる……?」
「行くわ。で、その写真機は……?」
「サツ(警察)で夜明ししてる! 売れば一万五千円の新円のサツやけどな」
 チマ子は吐き捨てるように言った。


    兄ちゃん

      一

 頽廃の一夜が明けて、日曜日の朝が来た。
 ただでさえ頽廃の町である。ことに土曜日の京都は、沼の底に妖しく光る夜光虫の青白い光のような夜が、悪の華の巷にひらいて、数々のいまわしい出来事が、頽廃のメシベから放つ毒々しい花粉の色に染まる――というこの形容は誇張であろうか。
 例えば、われわれが知る限りでも、昨夜、つまり土曜日の夜……。
 キャバレエ十番館のホールの階段に立った木崎のライカが狙う「ホール
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