かった。ただ、貴族――それだけかも知れない。貴族も相場は下った。しかし、相場が下ったから、貴子のような女は近づいて行くのだ。パトロンのある女は、こんどは逆に自分より非力の男と浮気したがるものだ。春隆も、貴子の眼にはそれだけ相場が下ったのか、終戦後の輿論だろうが、一つには、げんに金払いがわるい。もっとも、貴子は貴族を軽蔑しているわけではなかった。貴子は自分の名に「貴」の一字があることを、つねにある種の誇りを持って、想い出していたのだ。
章三は鈍感ではなかったから、貴子が春隆の悪口を余りにいいすぎることに気がついた。貴子という女は、めったに客の悪口をいったことがなかった。自分の店へ来る客はいわゆる上客ばかしだというのが、貴子の自慢で、パトロンの章三にはとくにそれを誇張していたくらいだ。
「なんや、こいつ侯爵に気があるのンか」
章三は不機嫌な唇を噛んだまま、鉛のように黙ってしまった。
そして三十分許りたった頃、いきなりバタバタと階段を降りる足音がして、靴を出してくれと、昂奮した女の声が聴えた。
「まア、そないお怒りにならんと、泊っとうきやす」
「履物どこですの……?」
「もう電車おへんえ。泊っとうきやす」
「帰ります。履物出して下さらないの?」
章三ははっとして廊下へ出て行った。玄関の女は振り向いた。視線が合った。
「あ」
女はいきなり、はだしのままで、玄関を飛び出して行った。――陽子だった。
夜の花
一
四条通りを横切ると、木屋町の並木は、高瀬川のほとりの柳も舗道のプラタナスも急に茂みが目立った。
田村の玄関をはだしのまま逃げ出して来た陽子は、三条の方へその舗道を下って行きながら、誰もついて来る気配のなかったのにはほっとしたが、章三を見た驚きは去らなかった。
「あたしはいつもあの男から逃げている!」
小石があるせいか一層歩きにくいはだしを、情なく意識しながら、陽子はつぶやいた。
陽子が東京の家を逃げ出して京都へ来ているのも、実は章三という男のせいだったのだ。
陽子の父の中瀬古鉱三は、毒舌的な演説のうまさと、政治資金の濫費と、押しの強さで政界に乗り出していたが、元来一徹者の自信家で、人を小莫迦にする癖があり、成り上り者の東条英機などを、政界の軽輩扱いにして、鼻であしらい、ことごとに反撥したので、東条軍閥に睨まれて、軽井沢の山
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