が出る大阪駅までの十町でしかなかった。
「この金があれば、京都まで行ける!」
 と、チマ子への想いをぐっと抱き寄せると、もう追われる不安がガタガタ体をふるわせて、何度も柳の木に突き当り、よろめいた途端、巡査とすれ違った。
 しかし、巡査はじろりと見ただけで、通り過ぎた。拘置所の脱走さわぎは十分前の出来ごとであり、その巡査の耳にはまだはいっていなかったのだろう。大量脱走者を出した大阪拘置所が、警察へ報告したのは、一時間たってからであった。
 もっとも、青い囚人服を着ていたとすれば、その場は無事に通り過せなかっただろうが、その時銀造はチマ子が差入れてくれた洋服を着ていたのだ。面会に来て、父親の銀造が青い着物を着ているのを見るのが辛く、チマ子は工面して闇市で洋服を買い、守衛にたのんで差入れたのだった。
「チマ子のおかげでたすかった!」
 と、ほっとしながら、渡辺橋の方へ折れると、道はぱっと明るく、バラック建ての商店街の灯が銀造の足下を照らした。――草履ばきだった。
 チマ子は靴も差入れようとしたのだが、拘置所では靴をはくことは許されず、持って行った靴は守衛への賄賂になったのだ。「この草履はまずい!」銀造は、もう誰も追って来ないと判ると、息苦しい胸を撫ぜて歩きながら、呟いた。洋服に草履ばきは、昨日今日ざらにある敗戦の身なりで、何の不思議もないとはいうものの、烱眼に掛れば、囚人用の草履であることを見抜くかも知れない。
 銀造は桜橋まで来ると、曾根崎の方へ折れて闇市の中へまぎれ込み、ズックの靴を買った。財布の金はまだ百円近く残っていた。
 大阪駅まで来て、京都までの切符を買い、何くわぬ顔でプラットホームで並ぶと、はじめてほっとした。が、さすがに不安は残り、キョロキョロうしろをみていると、十番線のホームで大阪仕立ての東京行き急行列車の二等に乗ろうとしている三十過ぎの男の精悍な顔が眼にはいった。銀造はいきなりどきんとした。

      二

 見覚えがある――と思ったのと、
「あ、あの男だ!」
 と、想い出したのと、殆んど同時だった。
 木文字章三――というその男の名前は知らなかったが、しかし、その顔は田村で見たことがあったのだ。
「たしか土曜日の晩だった!」
 満州から引揚げて来た銀造が、昔の二号だった貴子と、その貴子にうませたチマ子のいる田村を頼って、板場(料理人)の下廻りで
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