こいつ! なぜ、おれをつけた……?」
日頃大きな声も出せぬくらい大人しい北山には、ついぞこれまでなかった狂暴なその表情は怒りに逆上しているように見えたが、しかし、それは憤怒というより、むしろ北山の恐怖から出たものだった。
「こいつはおれがスリをしたことを知ってやがる!」
という予感が、北山を逆上させていたのだろう。臆病者の方がいざという時には狂暴な行動をやりがちなのだ。
「――お前、何もかも知っているんだろう。畜生!」
北山の手がカラ子の肩から首へ動いて、ぎゅっと力がはいりかけた途端、パーン、パーン……再び銃声が聴えて、なだれを打ったように、群衆がかけ出して来た。
「脱走だッ! 脱走だッ!」
「おい、こっちへ逃げろ!」
近くの大阪拘置所を破って脱走して来た一団であった。銃声は守衛が威嚇的に射ったものだろう。誰かが川へ飛び込んだ。
北山ははっとわれにかえると、その一団にまじってぱっとかけ出して行った。北山の狂暴な血は一時に引き、野卑な顔はただ狼狽の色に歪んでいた。
九
逃げろ、逃げろという声は、拘置所を脱走して来た未決囚の一団が、良心の囁きに傾きがちな不安な耳へ、ぶっつける群衆心理の叫び声であったが、北山の耳は、
「お前も逃げろ!」
と、聴いたのだ。だから、その一団にまぎれ込んで駈け出しながら、北山は自分もまた囚人であるかのような錯覚に、青ざめていた。
その夜、脱走した囚人は、あとで警察へ報告されたリストが四度も訂正されたくらい故、その時は誰も正確には判らなかったが、ざっと数えて百名ぐらいはあったろう。それが三方に分れて逃げたらしく、中之島公園へ逃げて来た連中はざっと三十名ばかり、差入れの着物や洋服などのいわゆる私服を持たぬ青い官服の囚人姿の者がその大半だったので、一眼見るなり拘置所からの脱走者だと判った。
その官服の青さは、月明りに照らされていたので、一層なまなましい不気味さに凄んで、悔恨の心のように北山の心に突きささったのだ。
「おれはスリのほかに、人殺しをしようと思ったのだ!」
もう少しであの小娘を殺すところだった――と、もはや北山にとっては、中之島公園はあの闇の娘を拾ったなつかしい場所ではなかった。
「逃げろ、逃げろ!」
中之島から逃げるんだ――と、北山もいつか囚人と同じ声を出して走りながら、あ、そうだ、こいつを持っていて
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