、カメラのレンズだけで覗いていた陽子が、今こうして一個の肉体となって現実に自分の前に現れて来た以上、もはや陽子は赤の他人ではなかった。
はじめて、十番館のホールで陽子を見た時、
「似ている!」
亡妻の八重子に似ていると、どきんとしたことは事実だが、しかし、仔細に観察すれば、他人の空似というほども似ていず、ただ少し感じが似ているというだけに過ぎないのだ。が、木崎は仔細に観察する余裕なぞなく、ホールの雰囲気の中で踊っている陽子の後姿をカメラの眼で追っているうちに、陽子の姿は嫉妬というレンズの額縁の中で捉えた亡妻の影像に変ってしまっていたのだ。
だから、陽子が眼の前に現れたのは、木崎にとっては八重子の影像がレンズから脱け出して来たのも同然であり、もはや似ているというような生やさしいものではなかった。当然しびれるようななつかしさを感じたのだが、しかし、それは恋情というものだろうか。
恋情とすれば、それはもう苦悩の辛さを約束したのも同様であり、心の自由を奪われてしまうことは覚悟しなければならない。だから、しまったと、悔恨を感じたのだ。
「到頭来たのか。やっぱし来たのか。何がこの女をおれの前へ連れて来たのか」
という悔恨であった。それが木崎の表情を陰欝にしたのだ。この女とはきっと何かが起るだろうという予感には、いそいそとした喜びはなく、何か辛かったのだ。
しかし、なぜ来たのだろう。木崎は陽子が口をひらくのを待った。
四
「わたくしお願いがあって、上りましたの」
十番館では「あたし」と言っていたが、陽子には、改まって言う時の「わたくし」の方が似合っていた。すくなくとも、とってつけたようには聴えず、ダンサーに似合わぬ育ちの良さ……と、木崎の耳には聴えた。
それがふと、木崎には悲しかった。しかし、それは、上品な育ちのよい女が身をおとして行く淪落の世相へのなげきではなかった。やはり、ダンスというものについて木崎の抱いている偏見のせいであった。清楚な女とダンスというものを、結びつけて考えたくないという偏見だ。事情は個人的なものだった。
木崎にとっては、ダンスとはつねに淫らなリズムに乗って動く夜のポーズであり、女の生理の醜さが社交のヴェールをかぶって発揮される公然の享楽であった。
だから、結びつけて考えたくないのだが、げんに陽子が結びついている。八重子が
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