んとオトラ婆さんの隣同士のややこしい別居生活が始まって間もなく、サイパン島の悲愴なニュースが伝えられた。
「やっぱし、飛行機だ。俺は今の会社をやめる」
 と、突然照井がいいだした。そして、自分たちがニューギニアでまるで乾いた雑巾から血を絞りとるほどほしかった航空機を作りに大阪の工場へ行くんだといって、じゃ、仲間の共同生活や小隊長を見捨てて行くのかという稗田の言葉には、大晦日に帰って来ると答えたまま出掛けてしまった。
「俺、連れ戻してくるよ」
 白崎は直ぐあとを追うたが、しかしなかなか帰って来なかった。人真似の癖のある白崎は照井の真似をしてしまったのだろうか。果して女馭者の千代が「大晦日に帰って来る」という白崎のことづけをもたらして来た。すると、残った稗田は急にそわそわして来て、
「俺も工場へ行きたくなったよ。鶴さん、小隊長を頼んだよ」
 そして行ってしまった。鶴さんは小隊長と二人で暮していたが、ある日何思ったかオトラ婆さんに、
「ものは相談だが、お前もここへ来て……」
「……一緒に暮すとも」
 オトラ婆さんは隣の家を畳んでいそいそとやって来たが、鶴さんはその夜ふいと出て行ったきり戻って来なかった。「大晦日には帰る」という言葉と、小隊長をオトラ婆さんに残して、炭坑へ働きに行ったのである。
「あたしゃ一杯くわされた」
 オトラ婆さんは口惜しがったが追っつかず、小隊長と二人でひっそり暮した。ある日小隊長は腹部に激痛を訴えたので、驚いた婆さんは灸を据えたが、医者は診て、こりゃ盲腸だ、冷やさなくちゃいけないのに温める奴があるかと、散々だった。幸い一命を取りとめ、手術もせずに全快したのは一枝や、千代やそれから千代の隣の水原芳枝という駅の改札員をしている娘たちの看病の賜といってはいい過ぎだろうか。この三人は小隊長の病気以来ずっとこの家に泊りこんでいるのである。オトラ婆さんだけに小隊長を任しておけないというのだろう。三人は小隊長やオトラ婆さんと同じように大晦日の来るのを待っていたが、しかし何故待つのだろう、誰を待ったのだろう。
 大晦日が来た。夕方、千代の馬車が家の前に停り、降りたのは稗田であった。千代は稗田のあとについてのこのこ家の中へはいった。一時間して照井が帰って来た。白崎とは駅まで一緒だったが、奴さん、改札口で手間取っているから置いて来たと照井は笑った。白崎は半時間経って帰
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