まばらである。たった一人の時さえ稀《めず》らしくなく、わざわざ改札に起きだして来るのも億劫なのであろう。したがって渡し損ねた切符が随分袂のなかに溜っている。それを佐伯は哀しいものに思い、そんな風に毎夜おそく帰って来る自分がまるで夜店出しの空の弁当箱に残っている梅干の食滓のように感じられて、情ないのだ。なぜもっと早く、いっそ明るいうちに帰って来ないのかと、骨がくずれるような後悔に足をさらわれてしまう。毛穴から火が吹きだすほどの熱、ぬらぬらしたリパード質に包まれた結核菌がアルコール漬の三月仔のような不気味な恰好で肝臓のなかに蠢いているだろう音、そういうものを感ずるだけではない。これから歩かねばならないアパートまで十町の夜更けの道のいやな暗さを想うと、足が進まないのである。カランカランという踏切の音を背中に聴きながら、寝しずまった住宅地を通り抜けると、もはや門燈のにぶい光もなく道はいきなりずり落ちたような暗さでそこに池がある。蛙が真っ暗な鳴声を立てている。池の左手には黒ぐろとした校舎がやもりのような背中を見せて立っている。柵がある。その柵と池の間の小径を行くのだが、二人並んで歩けぬくらい狭く
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