まばらである。たった一人の時さえ稀《めず》らしくなく、わざわざ改札に起きだして来るのも億劫なのであろう。したがって渡し損ねた切符が随分袂のなかに溜っている。それを佐伯は哀しいものに思い、そんな風に毎夜おそく帰って来る自分がまるで夜店出しの空の弁当箱に残っている梅干の食滓のように感じられて、情ないのだ。なぜもっと早く、いっそ明るいうちに帰って来ないのかと、骨がくずれるような後悔に足をさらわれてしまう。毛穴から火が吹きだすほどの熱、ぬらぬらしたリパード質に包まれた結核菌がアルコール漬の三月仔のような不気味な恰好で肝臓のなかに蠢いているだろう音、そういうものを感ずるだけではない。これから歩かねばならないアパートまで十町の夜更けの道のいやな暗さを想うと、足が進まないのである。カランカランという踏切の音を背中に聴きながら、寝しずまった住宅地を通り抜けると、もはや門燈のにぶい光もなく道はいきなりずり落ちたような暗さでそこに池がある。蛙が真っ暗な鳴声を立てている。池の左手には黒ぐろとした校舎がやもりのような背中を見せて立っている。柵がある。その柵と池の間の小径を行くのだが、二人並んで歩けぬくらい狭く、生い茂った雑草が夜露に濡れ、泥濘《ぬかるみ》もあるので、草履はすぐべとべとになり、うっかり踏み外すと池の中へすべり落ちてしまう。暗い。摺り足で進まねばならなかった。いきなり足を蹴るものがある。見えないが、ひき蛙らしい。蛇もいそうだ。佐伯は張子のように首をだらんと突きだしたじじむさい恰好で視線を泳がせる。もし眼玉というものが手でひっぱり出せるものなら、バセドウ氏病の女のそれのように、いやもっと瞳孔から飛び出させて、懐中電燈のように地面の上を這わせたいくらいである。佐伯は心の中で半分走っている。が、走れない。ふと見上げると、ひっそりした校舎の三階の窓にぽつりと一つ灯がついている。さっき見た時にはその灯はついていなかった筈だがとそっと水を浴びた想いに青く濡れた途端、その灯のついた深夜の教室に誰かが蠢いているように思った。いきなり窓がひらいてその灯がぬっと顔を出す。あっと声をのんだ。灯と思ったのは真赤な舌なのだ。いや火だ。口から吐き出す火だ。ぐんぐん伸びて来る。首が舌が火が……。背なかを舐めに来る。ろくろ首だ。佐伯は思わずヒーヒーと乾いた泣き声を出し、やっとその池の傍の小径を通り抜けると、原っぱのなかを駈けだす。急に立ち停る。ひどい息切れが来たのだ。胸の臓器を押しつぶしてしまいそうな呼吸困難である。駅の前が真っ白になる。赤い咳が来る。佐伯は青ざめた顔であわただしく咳の音を聴きながらじっと佇んでいる。寂しい一刻だ。暫らくするとまた歩き出す。恢復した視力でやっとアパートの灯が見える。裏口の裸電燈だ。その灯の下に誰かが佇んでいそうに思われる。いきなりその灯がすっと遠ざかって行く。かと思うと、また引き戻して来る。だんだん近づいて来る。四尺にも足りないちいさな老婆がその灯を持ってとぼとぼやって来るようだ。カラコロと下駄の音が聴える。出会いがしらにふっと顔を覗かれる、あっ、老婆の顔は白い粉を吹いたように真っ白で、眼も鼻も口もない……。
すべてはその道に原因していたんだと、その頃のことを佐伯は最近私に語った。おかげで毎夜身体はへとへとになり、やっとアパートの自分の部屋に戻って何ひとつ手につかず、そうかといって妙な不安に神経が昂ぶっているのでろくろく睡ることもできなかったという。彼はその頃せめてもに無為な生活から脱けだそうとして、いつかは上演されるだろうことを夢みながら、ひそかに戯曲を書こうと思い立っていたのだが、しかしそんな道をそんな風に帰って来た状態でどうして戯曲の仕事が出来たろうか。出来なかったのである。中庭を黒く渡る風の音を聴きながら、深夜の荒涼たる部屋のなかで凝然として力のない眼を瞠《みひら》いていたという。突然襲って来る焦躁にたまりかねて、あっと叫び声をあげ祈るように両手も差し上げるのだが、しかし天井からは埃ひとつ落ちて来ない。祈っても駄目だ、この病的な生活を洗い浄めて練歯磨の匂いのように新鮮なすがすがしい健康な生活をしなければならぬと、さまざまに思い描き乾いた雑巾を絞るような努力もしてみるのだが、その夜の道がそうした努力をすべて空しいものにしてしまうのである。なにもかもその道が無理矢理にひきずって行く。それは佐伯自身の病欝陰惨の凸凹の表情を呈して、頽廃へ自暴自棄へ恐怖へ死へと通じているのだと、もうその頃は佐伯はその気もなく諦めていたらしい。つまりはその道だったんだ、しかも暗闇だけがその道をいやなものにしていたのではないと佐伯はつけ加えた。日が暮れてアパートの居住者がそれぞれの勤先から帰って来る頃、佐伯は床を這いだして街へ出て行くのだが、町へ出るにはどう
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