してもその道を通らねばならないと思うと、業苦を背負ったように憂欝になってしまう。原っぱはいつもそこにあり、池はいつもそこにあり、径はいつも泥濘《ぬかる》み、校舎も柵も位置を動かない。道の長さが変る筈もない。その荒涼たる単調さが街へ出ようとする自分のうらぶれた気分を苛立たせ、たちまち自分は灰色になってしまうのだというのである。
 ところが夏も過ぎ秋が深くなって、金木犀の花がポツリポツリ中庭の苔の上に落ちる頃のある夕方、佐伯が町へ出ようとしてアパートの裏口に落ちていた夕刊をふと手にとって見ると、友田恭助が戦死したという記事が出ていた。佐伯はまるで棒をのみこんでしまった。この人にこそ自分の戯曲を上演して貰いたいと思っていたその友田が死んだのだ。高等学校にいた頃、脚本朗読会をやってわざわざ友田恭助を東京から呼び、佐伯は女役になってしきりにへんな声を出し、友田は特徴のある鼻声をだし、終って一緒に記念写真を写したこともある。コトコトと動いていなければ気の済まない友田は写真をうつす時もひとりでせっせと椅子運びをやっていた、それをものぐさの佐伯は感心して眺めていた。そんなことも想いだされて佐伯はああえらいことになってしもたとホロホロ泣いた。あの、時代に取残された頽廃的な性格を役どころにしていた友田が、気の弱い蒼白い新劇役者とされていた友田が「よしやろう」と気がるに蘊藻浜敵前渡河の決死隊に加わって、敵弾の雨に濡れた顔もせず、悠悠とクリークの中を漕ぎ兵を渡して戦死したのかと、佐伯はせつなく、自分の懶惰《らんだ》がもはや許せぬという想いがぴしゃっと来た。ひっそりとした暮色がいつもの道に漂うていた。「つまりは友田の言った、よしやろう、これだな」呟きながら固い歩き方でその道行きかけて、しかし佐伯はふと立ち停った。そうだ、あの道[#「あの道」に傍点]をいっぺん通ってやろう、この考えがだしぬけに泛《うか》んだのだ。アパートの表を真っ直ぐに通じているかなり広い道があり、居住者が時どきその道を通って帰って来るのを佐伯は見たことがある。駅とは正反対の方角ゆえ、その道から駅へ出られるとも思えず、なぜその道を帰って来るのだろうと不審だったが、そしてまた例のものぐさで訊ねる気にもなれなかったが、もしかしたらバスか何かの停留所があってそこから町へ行けるではないかと、かねがね考えていたのである。その想像が当るか
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