いふものは、毎年まるで一年中の寒さがこの日に集まつたかと思はれるほどの厳さである。ことに南禅寺は東山の山懐ろで、琵琶湖の水面より土地が低い。なほ坂田は六十八歳の老齢である。世話人が煖房に細心の気を使つたのはいふまでも無からう。古来将棋の大手合には邪魔のはいり勝ちなものである。七日掛りの対局といふからには、一層その懸念が多い。よしんば外部からの故障がなくとも、対局者の発病といふこともある。対局場の寒さにうつかり風邪を引かれては、それまでだ。勿論、部屋の隅にはストーブが焚《た》かれ、なほ左右の両側には、火をかんかんおこした火鉢が一個づつ用意された。
それを、六十八歳の坂田は、
「火鉢にあたるやうな暢気《のんき》な対局やおまへん。」と言つて、しりぞけたのである。このことを私は想ひ出したのだ。何故とくに想ひだしたのだらうか。
木村には附添ひはなかつたが、坂田には玉江といふ令嬢が介添役として大阪から同行して来てゐた。妻に死なれたあとずつとやもめ暮しの父の身の廻りのことを、一切やつて来たといふひとである。対局中の七日間、両棋士はずつと南禅寺に罐詰めといふ約束であつた。ところが、坂田は老齢の上に、何かと他人に任せられぬ世話の掛る人である。人との応対は勿論、封じ手の文字を書くことさへ出来ない。食事も令嬢の手料理でなくてはかなはぬのだ。そこで、対局中玉江といふ令嬢が附きつ切りで、坂田の世話をすることになつたのであるが、ひとつには坂田がこのひとを連れて来たのは、嫁《とつ》ぎもせず自分の面倒を見て来てくれた娘に、自分の将棋を見せるためでもあつた。
「お前もお父つあんが苦しんでるのんを、傍から見てるのんは辛《つろ》うてどんならんやろけど、言や言うもんの、わいにもわいの考へがあつて、来て貰《もろ》たんやぜ。わいはお前らの父親や言ふもんの、何ひとつ残してやる財産いふもんがない。せめて、お父つあんがどれだけ苦労して一生懸命に将棋指してるか、そこをよう見といてや。これがわいのたつた一つの遺産やさかい……」
一手六時間といふまるで乾いた雑巾《ざふきん》から血を絞り出すやうな、父の苦しい長考を見て、到頭対局場に居たたまれず、隣りの部屋へ逃げ出した挙句、病気になつてしまつたといふ玉江に、坂田はこんな風に言つた。けれど、本当は坂田は死んだ細君にその将棋を見せてやりたかつたのではなからうか。細君の代り
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