つた――といふ程度である。それ故古今の棋譜を読んでそれに学ぶといふことが出来ない。おまけに師匠といふものがなかつたので、自分ひとりの頭を絞つた将棋を考へだすより仕様がなかつたのだ。自然、自分の才能、個性だけを頼りにし、その独自の道を一筋に貫いて、船の舳《へさき》をもつてぐるりとひつくり返すやうな我流の将棋をつくるやうになつた。無学、無師匠の上に、個性が強すぎたのだ。ひとつには、泉州の人らしい茶目気もあつたらう。が、それ故に、坂田将棋は一時|覇《は》を唱へ、また人気も出た。自信も湧いて来た。角頭の歩を突いたり、名人を自称したり、いはば横紙を破る強気も生じたのだ。が、この強気の故に彼は永い間沈黙を守らねばならぬ破目になつた。さうして、三年間といふもの、彼は人にも会はず外出もせず駒を手にせず、ひたすら自分の心を見つめて来た。何を考へ、何を発見したか、無論私には判らない。が、しかし「その時の坐蒲団がいまだにへつこんでゐます。」といふくらゐの沈思黙考の間に、彼が栓ぬき瓢箪の将棋観をいよいよ深めたであらうことは、私にも想像される。我の強気を去らなくては良い将棋は指せないといふ持論をますます強くしたのではなからうか。さうして、その現はれが、攻め勝たうとする速度を急ぐ近代将棋に反抗する九四歩だつたのではなからうか。つまりは、九四歩は我を去らうとする手であつたのではなからうか。けれど、一面これくらゐ坂田の我を示す手はないのだ。坂田は依然として坂田であた。彼は九四歩の手損を無論知つてゐたに違ひない。が、平手将棋は先後いづれも駒が互角だから、最初の一手をどう指さうと、隙のないやうには組めるものだ、最初の一手ぐらゐで躓《つまづ》くやうな坂田の将棋ではない、無理な手を指しても融通無碍《ゆうづうむげ》に軽くさばくのが坂田将棋の本領だといふ自信の方が強かつたのだ。この自信があつたから、彼は十六年振りに立つたのである。さうして、彼は生涯の最も大事な将棋に最も乱暴な手を指したのである。
 これはもう魔がさしたといふやうなものではなかつたのだ。坂田といふ人にとつては、もうこれほど自然な手はなかつたのである。自分の芸境を一途《いちづ》に貫いたまでの話である。なんの不思議もない。けれど、その時彼がかつて大衆の人気を博したいはゆる坂田将棋の亡霊に憑《つ》かれてゐたことは確かであらう。おまけに、なんといつても
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