ふを唸《うな》らせる奇手が現はれた。その彼が急に永い沈黙を守つてしまつたのである。功成り遂《と》げてからといふならまだしも、坂田将棋の真価を発揮するのはこれからといふ時であつた。大衆はさびしがつた。
 けれど、坂田の沈黙によつて、棋界がさびれた訳ではない。木村・金子たち新進が擡頭し、花田が寄せの花田の名にふさはしいあつと息を呑むやうな見事な終盤を見せだした。定跡《ぢやうせき》の研究が進み、花田・金子たちは近代将棋といふ新しい将棋の型をほぼ完成した。さうして、棋界が漸《やうや》く賑《にぎ》はつたところへ、関根名人が名人位引退を宣言した。名人一代の制度が廃止されて、名人位獲得のリーグ戦が全八段によつて開始された。大阪からは木見八段が参加した。神田八段も中途から加はつた。が、ただひとり坂田は沈黙してゐる。坂田の実力はやがて棋界の謎となつてしまつた。隆盛期の棋界に、そこだけがぽつんとあいた穴のやうな感じであつた。
 この穴を埋めることは、棋界に残された唯一の、と言はないまでも、かなり興味深い大きな問題である。自然大新聞社は殆んど一ツ残らず、坂田の対局を復活させようと、さまざまに交渉した。新聞社同志の虚々実々の駆引《かけひ》きは勿論である。けれど、坂田と東京方棋士乃至将棋大成会との間にわだかまる感情問題、面目問題はかなりに深刻である。大成会内部の意見を纏《まと》めるのさへ、容易ではなかつた。おまけに肝腎の坂田自身がお話にならぬ難物であつた。
 たいていの新聞社はこの坂田の口説《くど》き落としだけで参つてしまつたのだ。
「銀が泣いてゐる。」といふ人である。――ああ、悪い銀を打ちました、進むに進めず、引くに引かれず、ああ、ほんまにえらい所へ打たれてしもたと銀が泣いてゐる。銀が坂田の心になつて泣いてゐるといふのだ。坂田にとつては、駒の一つ一つが自分の心であつた。さうして、将棋盤のほかには心の場所がないのだ。盤が人生のすべてであつた。将棋のほかには何物もなく、何物も考へられない人であつた。無学で、新聞も読めない、交際も出来ない。それ故、世間並の常識で向つても、駄目であつた。対局の交渉を受けて、
「そんならひとつ盤に相談しときまひよ。」といふ詞は伊達《だて》ではない。それを聴いては、もうどんな道理を持つて行つても空《むな》しかつた。交渉に行つた記者はかんかんになつて引き下つた。
 名人
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