上に腹ばいになって、煙草ばかし吸った。私の喫煙量は急に増えて行った。
そして、私は放蕩した。宮川町。悔恨と焦燥の響きのような鴨川のせせらぎの音を聴きながら、未知の妓の来るのを待っている娼家の狭い部屋は、私の吸う煙草のけむりで濛々としていた。三条京阪から出る大阪行きの電車が窓の外を走ると、ヘッドライトの灯が暗い部屋の中を一瞬はっとよぎって、濛々とした煙草のけむりが照らされ、私は自分の堕落が覗かれた想いにうろたえて、重く沈んでいると、
「うわッ! えらい煙どんなア」
はいって来た妓の声がちくりと胸を刺し、その妓の顔は、彼女とはくらべものにならぬくらい醜く、下卑ていた。
仁丹を買うためにパトロンを作った彼女は、煙草も酒も飲まず、酒場のボックスでは果物一つ口にしない行儀のよさが、吉田の学生街のへんに気取ったけちくさいアカデミックな雰囲気に似合っており、容姿にも何かあえかなノスタルジアがあった。
そんな彼女が葉巻のにおいにむせている顔を想像しながら、私はなるべく妓の体と隙間を作って横になり、やけに煙草をふかしていた。妓は煙をいやがって、しまいには背中を向けたが、
「君!」と、振り向かせるには、余りにぶくぶく肥えて、その肉のかたまりを包んだ長襦袢の襟は手をふれるのもためらわれるくらい、垢じみていた。しかし……。
朝、娼家を出た私は、円山公園の芝生に寝転んで、煙草を吸った。背を焼かれるような悔恨と、捨てられた古雑巾のような疲労! 公園のラジオ塔から流れて来るラジオ体操の単調な掛声は、思いがけず焦燥の響きだったが、私は何もしたくなかった。学校へも行きたくなかった。音楽も聴きたくなかった。映画も芝居も本も、面倒くさかった。歩くのも食うのも億劫だった。私には何一つすることがなかった。ただ煙草を吸うことが、わずかに残されていたのである。
そして、それから大分たって、彼女が、
「もう会うのはよしましょう。あなたを苦しめるだけだから」
と、月並みだが、私にとっては切実な言葉を言いに、私の下宿へやって来た時も、私はまず煙草を吸った。それからオイオイ泣き出して、そして、また煙草を吸うために泣きやんだ。
私は彼女とは立ち入った関係はなかったが、会えば唇にだけはふれていた。私は彼女の仁丹のにおいのする口臭を、永久に忘れがたいだろうと思った。未練たらしい私は、彼女が化粧を直して私の部屋を出て行く時、せめて最後の口づけだけでもしたいと思った。が、その時たまたま……というより、その時もまた私は煙草をくわえていた。おかげで、私は気障な真似をせずに、彼女と別れることが出来たわけである。
今はもうその時の実感を呼び起すだけのナイーヴな神経を失っているし、音楽でも聴かぬ限り、めったと想いだすこともないが、つまらない女から別れ話を持ち出されて、オイオイ泣きだしたのは、あとにもさきにもこの一度きりで、親が死んだ時もこんなにも取り乱さなかった。私はしょっちゅう尻尾を出している人間で、これから先もどんな醜態を演じて、世間の物わらいの種になるか、知れたものではないが、しかし、すくなくとも女から別れ話を持ち出されて泣きだすような醜態だけは、もはや見せることもあるまいと思われる。
それに私たち三十代の半ばに達していない年頃の人間は、感激とか涙とか昂奮とか絶叫とかいうことを知らない世代ではないかと思われるくらい、泣きたがらない傾向がある。今年の五月のことだ。京都のある雑誌でH・Kという東京の評論家を京都に呼んで、H・Kを囲む座談会をやった。司会をした仏蘭西文学研究会のT・IはH・Kの旧友だった。二人ともよく飲んだ。話がたまたま昔話に移った。「あの時は君は……」H・KはいきなりT・Iにだきついて、泣きだした。T・Iも「K君、よく来てくれた。おれは会いたかったよ」と泣いた。速記者があっけに取られていると、二人は起ち上って、ダンスをはじめた。ダンスがすむと、また文学論に移ったということである。十日ほどして同じ雑誌でT・Mという福井に疎開している詩人をよんで、また座談会をした。T・Iが司会、酒……。やはりT・MはH・Kがしたように、T・Iと抱き合って、泣きだしたという。H・KもT・MもT・Iも同じ四十代である。私はこの話をきいた時、「四十代と三十代とは違う」と思った。私たちは旧友に会うても、昔話をしても、酒を飲んでも、泣くようなことはない。
H・KもT・MもT・Iもそれぞれの専門では一流の学者である。しかし、私たち「泣かない」三十代の文学者にはこれといった仕事をする人間がいない。文学者としての宿命を感じさせるような者もいないし魅力も乏しい。文学者として世に立っても、型が小さすぎる。やはり泣かない世代はだめなのだろうか。泣かない世代には泣かない悲しみの文学がありそうなものだが、しかし少数の泣かない文学も目下のところ泣く文学には勝てない。泣かない世代、泣けない私たちはもしかしたら、泣く時代、泣ける彼等より不幸なのかも知れない。
してみれば、よしんば二十歳そこそこだったとはいえ、女との別れ話に泣きだした時の私は案外幸福だったのかも知れない。取り乱すほど悲しめたのは、今にして想えば、なつかしい想い出である。もっとも、取り乱したのは、一種のジェスチヤだったのかも知れない。おれは別れることにこんなに悲しんでいるのだという姿を、女にも自分にも見せて、自虐的な涙の快感に浸っていたのだろう。泣いている者が一番悲しんでいるわけではないのだ。
しかし泣けない私たちが憧れるのは、とにもかくにも泣けた青春時代であろう。私の一生には私を泣かせるような素晴らしい女はもはや現われないだろうが、しかしよしんばつまらない女とでも泣けた時代が羨ましいのである。ひとの羨むような美女でも、もし彼女がウェーブかセットを掛けた直後、なまなましい色気が端正な髪や生え際から漂っている時は、私はよしんば少しくらい惚れていても、顔を見るのもいやな気がする。私は今では十五分も女が待てない。女とそれきり会えないと判っても、悲しい顔もせず、その女が小説に書けるかどうか一寸考えるだけである。書けそうでも書いたためしはない。書くほどの熱も起らないし、まして最後の一夜を共にしようという気も起らない。そんな宿屋を探すくらいなら、闇市の煙草を探したいのだ。再び会えない女とよりも、百本の煙草と共に夜を過したいのである。別れぎわの女は暗がりを歩きたがる。そして急に立ち停る。女が何を要求しているか私には判るのだが、しかし私は肩にすら触れない。
思えば、最初に女と別れた時の取り乱し方と、何という違いだろう。しかし取り乱しても、さすがに私は煙草だけは吸うことを忘れなかったのだ。どんな悲哀も倦怠も私から煙草を奪い上げることは出来なかったのだ。いや、どんなに救われない状態でも、煙草だけが私を慰めたのだ。
一日四十本以上吸うのは、絶対のニコチン中毒だということだが、私の喫煙量は高等学校時代に、既にその限界を超えてしまったのだ。
私は一本のマッチがあれば、つねに五本の煙草を吸うことが出来た。もう、こうなれば眼がさめた時がうまいとか、食事のあとがどうとかいうようなことを考えている余裕はない。
私はかつて薬の効能書に「食間服用」とあるのを、食事の最中に服用するものだと早合点して、食事中に薬を飲んで笑われたことがあるが、しかしこの煙草に関しては私はつねに「食間喫煙」であった。食事中に箸を置いて、おもむろに煙草を吸うというのは、まだ生易しい方で、カレーライスなどの場合、右手にスプーン、左手に煙草、右手と左手をかわるがわる口へ持って行った。食前、食間は勿論である。入浴する時は、まず新しい煙草に火をつけるほか、耳にも新しい煙草をはさんで置き、その二本を吸い終るまでは左手を濡らさなかった。
いわば、私は一刻も煙草を手から離さなかった。――というのがもし誇張なら、一刻も煙草を手から離したくなかった――といいかえても良い。教室では教師がはいって来ると、もみ消さねばならなかったが、授業中吸えないというのが情けなくて、教師と入れちがいに教室をぬけ出すことがしばしばであった。遅刻した時も教室の廊下で一本吸ってからはいった。試験の時は、早く外へ出て吸いたい気持にかられて、いい加減に答案を書いて出してしまった。試験の成績など煙草の魅力にくらべると、ものの数ではなかった。いつか私は「朝、眼をさましてから、床の中でぐずついているような男は、配偶者としては、だめである」
という意味の横光さんの言葉を読んで、どきんとしたことがあるが、実は私は横光さんのいわゆるだめな男なのである。私はどんなに寝足りた時でも、眼をさましてから半時間、時に一時間も二時間も、寝床の中でぐずついている癖がなおらない。煙草を吸っているのである。四五本、多くて一箱、朝の床で立てつづけに吸わぬうちは、どんなに急ぎの用事があっても、時間が迫って来ても、私は起きる気にならない。
私は昔も今も夢のない人間だ。「生きた、恋した、書いた」というスタンダールの生き方にあこがれながら、青春を喪失した私は、「われわれは軽佻か倦怠かのどちらか一方に陥ることなくして、その一方を免れることは出来ない」
というジンメルの言葉に、ついぞ覚えぬ強い共感を抱きながら、軽佻な表情のまま倦怠しているのである。前途に横たわる夢や理想の実現のために、寝床を這い出して行く代りに、寝床の中で煙草をくゆらしながら、不景気な顔をして、無味乾燥な、発展性のない自分の人生について、とりとめのない考えに耽っているのである。
そして、それが私にとって楽しいわけでもなんでもないのだ。そんなに煙草がうまいわけでもない。しかし、私はいつまでも寝床の中で吸っている。中毒といってしまえば、一番わかりやすいが一つにはもし、私にも生きるべき倦怠の人生があるとすれば、私は煙草を吸うことによってのみ、その倦怠の人生を生きているのかも知れない。私が煙草を吸わなくなれば、もう私には生きるべき人生もない。煙草を吸わなくなれば! というのは私にとっては絶対に禁煙を意味しない。私は一生禁煙しようと思わぬし、思っても実行出来る私ではない。煙草が吸えなくなれば、私は何をしていいのだろうか。恐らく気が狂うか全くの虚脱状態になってしまうだろう。
起きなければ、起きなければと思いながらも一本と吸っている時の私は、自分の人生を無駄に浪費しているわけだが、しかしそのような浪費のずるずるべったりの習慣の怖しさをふと意識した瞬間ほど、私は自分のデカダンの自虐的な快感を味わう時はないのだ。その一本の為に、私は試験に遅刻した。遅刻するとわかりながら、吸っていた。かけつけた時は、もう試験は終っていた。私は落第し、それがたび重なって、到頭学校を棒に振ってしまった。
してみれば、私は煙草のために学校を棒に振ったということになる。しかし「髪」という小説では、私は自分の長髪のために学校を棒に振ったと書いた。「私の髪の毛も長かったが、学校生活も長かった。私は余りの長さにいや気がさして、到頭学校をよしてしまった」と書いた。洒落である。学校生活を棒にしてしまったというのも、洒落だ。つまり落ちである。
「煙草が自分の身を亡ぼした」
という一行の落ちで、自分の生涯を片づけてしまおうというこの試みは、一葉落ちて天下の秋を知るようなもので、一応気が利いていようが、趣向だけ目立って、真実性に乏しい。自分というものに対して、逃げを打っているのかもしれない。
けれど、逃げずに、自分の生涯にまともに向い、これを克明に描写してみたところで、何になろう。私は平凡な人間である。平凡な人生を平凡な筆で正直にありのままに書くことが、作家として純粋だという考え方は、まるで文学のノスタルジアのように思われているが、自伝というものは、非凡な人間が語ってこそ興味があるので、われわれ凡人がポソポソと語って、何が面白かろう。しかし、われわれは結局自分のことを語りたいのである。してみれば、せめて聴き手のために、応接間に煙草の用意ぐらいは
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