。その当座、私は一日二箱のキングを吸って、ゲエゲエと吐気がした。私は煙草をよそうと思った。新しい女が私の前に現われたのだ。
 彼女はいつも仁丹を口にしていた。一日三円ぐらい仁丹をたべると言っていた。仁丹という看板を見たり、仁丹という言葉をきいたり、広告を見たり、箱を見たりすると、もう口にしないではおられぬらしい。一度に百粒も口に入れた。私はその女のそんなマニヤを哀れんだ。一日に二円も収入のない安酒場の女だった。器量はよかったが、衣裳がないので、そんな所で働いているのだった。銭湯代がないから、五十銭貸してくれと、私に無心したことがある。貸してやると、その金で仁丹の五十銭袋を買うたらしい。一日二円たらずの収入で、毎日三円の仁丹では、暮らして行けぬのか、到頭パトロンを作った。ある日、私に葉巻をくれた。そのパトロンに貰ったのだろう。ロンドという一本十銭の葉巻だった。吸ってみると、白粉の匂いがした。化粧品と一緒にハンドバッグに入っていたためだろう。
 私は彼女のパトロンは葉巻を吸うような男だから、恐らく彼女をホテルへ連れて行くだろうと思った。彼女は化粧栄えのする顔立ちで、ホテルの食堂へはいっても人目を惹くだろうが、それにしては身につけているものがお粗末すぎる。パトロンは早々と部屋へ連れて上って、みすぼらしい着物を寝巻に着更えさせるだろう。彼女は化粧を直すため、鏡台の前で、ハンドバッグをあけるだろう。その中には仁丹の袋がはいっている。仁丹を口に入れて、ポリポリ噛みながら、化粧して、それから、ベッドへ行くだろう。パトロンの舌には半分融けかかった仁丹がいくつもくっつく……。しかしパトロンは気づかない。
 私は想像して、たまらなかった。半分融けかかった仁丹が、劇薬だったらと思ってみたりした。私は彼女と会うことをよそうと思った。べつに惚れているわけでも深い関係があるわけでもなかった。パトロンのある女なんか……と、軽蔑してしまえばよかったのだ。ところが、ますます会いたくなった。私は約束の時間より早い目に行き、いつも待たされる男だった。待っても来ない時があった。パトロンと会うてるのだろうか。そう思いながら、待っている間、私は煙草ばかり吸っていた。その酒場へ行っても、彼女がほかのボックスへ行っている間は、いらいらと煙草を吸っていた。夜、彼女がパトロンと一緒にいる光景がちらついて、眠れず、机の上に腹ばいになって、煙草ばかし吸った。私の喫煙量は急に増えて行った。
 そして、私は放蕩した。宮川町。悔恨と焦燥の響きのような鴨川のせせらぎの音を聴きながら、未知の妓の来るのを待っている娼家の狭い部屋は、私の吸う煙草のけむりで濛々としていた。三条京阪から出る大阪行きの電車が窓の外を走ると、ヘッドライトの灯が暗い部屋の中を一瞬はっとよぎって、濛々とした煙草のけむりが照らされ、私は自分の堕落が覗かれた想いにうろたえて、重く沈んでいると、
「うわッ! えらい煙どんなア」
 はいって来た妓の声がちくりと胸を刺し、その妓の顔は、彼女とはくらべものにならぬくらい醜く、下卑ていた。
 仁丹を買うためにパトロンを作った彼女は、煙草も酒も飲まず、酒場のボックスでは果物一つ口にしない行儀のよさが、吉田の学生街のへんに気取ったけちくさいアカデミックな雰囲気に似合っており、容姿にも何かあえかなノスタルジアがあった。
 そんな彼女が葉巻のにおいにむせている顔を想像しながら、私はなるべく妓の体と隙間を作って横になり、やけに煙草をふかしていた。妓は煙をいやがって、しまいには背中を向けたが、
「君!」と、振り向かせるには、余りにぶくぶく肥えて、その肉のかたまりを包んだ長襦袢の襟は手をふれるのもためらわれるくらい、垢じみていた。しかし……。
 朝、娼家を出た私は、円山公園の芝生に寝転んで、煙草を吸った。背を焼かれるような悔恨と、捨てられた古雑巾のような疲労! 公園のラジオ塔から流れて来るラジオ体操の単調な掛声は、思いがけず焦燥の響きだったが、私は何もしたくなかった。学校へも行きたくなかった。音楽も聴きたくなかった。映画も芝居も本も、面倒くさかった。歩くのも食うのも億劫だった。私には何一つすることがなかった。ただ煙草を吸うことが、わずかに残されていたのである。
 そして、それから大分たって、彼女が、
「もう会うのはよしましょう。あなたを苦しめるだけだから」
 と、月並みだが、私にとっては切実な言葉を言いに、私の下宿へやって来た時も、私はまず煙草を吸った。それからオイオイ泣き出して、そして、また煙草を吸うために泣きやんだ。
 私は彼女とは立ち入った関係はなかったが、会えば唇にだけはふれていた。私は彼女の仁丹のにおいのする口臭を、永久に忘れがたいだろうと思った。未練たらしい私は、彼女が化粧を直して私の部屋
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