書に「食間服用」とあるのを、食事の最中に服用するものだと早合点して、食事中に薬を飲んで笑われたことがあるが、しかしこの煙草に関しては私はつねに「食間喫煙」であった。食事中に箸を置いて、おもむろに煙草を吸うというのは、まだ生易しい方で、カレーライスなどの場合、右手にスプーン、左手に煙草、右手と左手をかわるがわる口へ持って行った。食前、食間は勿論である。入浴する時は、まず新しい煙草に火をつけるほか、耳にも新しい煙草をはさんで置き、その二本を吸い終るまでは左手を濡らさなかった。
 いわば、私は一刻も煙草を手から離さなかった。――というのがもし誇張なら、一刻も煙草を手から離したくなかった――といいかえても良い。教室では教師がはいって来ると、もみ消さねばならなかったが、授業中吸えないというのが情けなくて、教師と入れちがいに教室をぬけ出すことがしばしばであった。遅刻した時も教室の廊下で一本吸ってからはいった。試験の時は、早く外へ出て吸いたい気持にかられて、いい加減に答案を書いて出してしまった。試験の成績など煙草の魅力にくらべると、ものの数ではなかった。いつか私は「朝、眼をさましてから、床の中でぐずついているような男は、配偶者としては、だめである」
 という意味の横光さんの言葉を読んで、どきんとしたことがあるが、実は私は横光さんのいわゆるだめな男なのである。私はどんなに寝足りた時でも、眼をさましてから半時間、時に一時間も二時間も、寝床の中でぐずついている癖がなおらない。煙草を吸っているのである。四五本、多くて一箱、朝の床で立てつづけに吸わぬうちは、どんなに急ぎの用事があっても、時間が迫って来ても、私は起きる気にならない。
 私は昔も今も夢のない人間だ。「生きた、恋した、書いた」というスタンダールの生き方にあこがれながら、青春を喪失した私は、「われわれは軽佻か倦怠かのどちらか一方に陥ることなくして、その一方を免れることは出来ない」
 というジンメルの言葉に、ついぞ覚えぬ強い共感を抱きながら、軽佻な表情のまま倦怠しているのである。前途に横たわる夢や理想の実現のために、寝床を這い出して行く代りに、寝床の中で煙草をくゆらしながら、不景気な顔をして、無味乾燥な、発展性のない自分の人生について、とりとめのない考えに耽っているのである。
 そして、それが私にとって楽しいわけでもなんでもないのだ。そんなに煙草がうまいわけでもない。しかし、私はいつまでも寝床の中で吸っている。中毒といってしまえば、一番わかりやすいが一つにはもし、私にも生きるべき倦怠の人生があるとすれば、私は煙草を吸うことによってのみ、その倦怠の人生を生きているのかも知れない。私が煙草を吸わなくなれば、もう私には生きるべき人生もない。煙草を吸わなくなれば! というのは私にとっては絶対に禁煙を意味しない。私は一生禁煙しようと思わぬし、思っても実行出来る私ではない。煙草が吸えなくなれば、私は何をしていいのだろうか。恐らく気が狂うか全くの虚脱状態になってしまうだろう。
 起きなければ、起きなければと思いながらも一本と吸っている時の私は、自分の人生を無駄に浪費しているわけだが、しかしそのような浪費のずるずるべったりの習慣の怖しさをふと意識した瞬間ほど、私は自分のデカダンの自虐的な快感を味わう時はないのだ。その一本の為に、私は試験に遅刻した。遅刻するとわかりながら、吸っていた。かけつけた時は、もう試験は終っていた。私は落第し、それがたび重なって、到頭学校を棒に振ってしまった。
 してみれば、私は煙草のために学校を棒に振ったということになる。しかし「髪」という小説では、私は自分の長髪のために学校を棒に振ったと書いた。「私の髪の毛も長かったが、学校生活も長かった。私は余りの長さにいや気がさして、到頭学校をよしてしまった」と書いた。洒落である。学校生活を棒にしてしまったというのも、洒落だ。つまり落ちである。
「煙草が自分の身を亡ぼした」
 という一行の落ちで、自分の生涯を片づけてしまおうというこの試みは、一葉落ちて天下の秋を知るようなもので、一応気が利いていようが、趣向だけ目立って、真実性に乏しい。自分というものに対して、逃げを打っているのかもしれない。
 けれど、逃げずに、自分の生涯にまともに向い、これを克明に描写してみたところで、何になろう。私は平凡な人間である。平凡な人生を平凡な筆で正直にありのままに書くことが、作家として純粋だという考え方は、まるで文学のノスタルジアのように思われているが、自伝というものは、非凡な人間が語ってこそ興味があるので、われわれ凡人がポソポソと語って、何が面白かろう。しかし、われわれは結局自分のことを語りたいのである。してみれば、せめて聴き手のために、応接間に煙草の用意ぐらいは
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