近発見した。口は喋るためのみについているのではあるまい。議論している間、欠伸ばかししているか、煙草ばかしふかしておれば、相手は兜を脱ぐにきまっている。
墓銘など、だから私はまかり間違っても作らないつもりである。よしんば作っても、スタンダールのように、
「生きた、書いた、恋した」
というような言葉を選べるほど、私は充実した人生を送って来なかった。まかりまちがって墓銘を作るとすれば、せいぜい、
「私は煙草を吸った」
と、いう文句ぐらいしか出て来ないであろう。これで十分である。私は煙草を吸って来たのだ。
もっとも、そのような文句では余りに芸がないというなら、
「煙草について、私の唯一の制限は、一回に一本より余計の煙草を吸わないことであった。私はけっして眠っている間は吸わなかった。そして、眼ざめている間は、けっしてそれを捨てなかった」
とでもすれば、気が利いているだろうか。しかし、之はマーク・トゥエーンの言葉である。
マーク・トゥエーンという作家は私の読んだ限りでは大した作家ではない。まだしもオー・ヘンリーやカミの方が才能があるが、しかし、オー・ヘンリーやカミといえども二流、三流である。私はうぬぼれかも知れないが、オー・ヘンリーやカミやマーク・トゥエーンよりはましな小説が書けると思っている。
私がマーク・トゥエーンに注目しているのは、だから彼の小説に関してではない。マーク・トゥエーンは一日に四十本の葉巻を吸った。そのことに注目しているのである。が、これとても大したことはない。私は一日に百本の煙草を吸っている。多い日は百三十本吸ったこともある。その点では、マーク・トゥエーンには負けないつもりである。しかし、
「煙草について、私の唯一の制限は……」
云々という彼の名文句には、さすがの私も参った。
私は一日に六十本よりすくない煙草を吸ったことは殆んど稀である。余程の事情のない限り、毎日百本の煙草を吸っている。しかも、私は煙草についてマーク・トゥエーンのような名文句を書いたことはない。
思うに、マーク・トゥエーンは煙草の豊富な、安く、容易な入手できる時代に生れて、そして死ぬまでその状態がかわらなかった。これに反して、ここ二三年の私の生活は、いかにして一日一日の煙草を入手するかという努力に終始していた。煙草について気の利いた名文句を考えている余裕などなかった。だか
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