はおもむろに献立表を観察して、ぶぶ漬という字が眼にはいると、いきなり空腹を感じて、ぶぶ漬を注文した。やらし人やなというKの言葉を平然と聞流しながら、生唾をのみこみのみこみ、ぶぶ漬の運ばれて来るのを待っていると、やがて、お待ちどうさんと前へ据えられた途端、あッ、思わず顔が赧くなって、こともあろうにそれはお櫃ではないか。おまけに文楽の人形芝居で使うような可愛らしいお櫃である。見渡すと、居並ぶ若い娘たちは何れもしるこやぜんざいなど極めて普通の、この場に適しいものを食べている。私一人だけが若い娘たちの面前で、飯事《ままごと》のようにお櫃を前にして赧くなっているのだ。クスクスという笑い声もきこえた。Kはさすがに笑いはしなかったが、うちいややわと顔をしかめている。しかし、私は大いに勇を鼓してお櫃から御飯をよそって食べた。何たることか裕然と構えて四杯も平げたのである。しかもあとお茶をすすり、爪楊子を使うとは、若気の至りか、厚顔しいのか、ともあれ色気も何もあったものではなく、Kはプリプリ怒り出して、それが原因でかなり見るべきところのあったその恋も無残に破れてしまったのである。けれども今もなお私は「月ケ瀬」のぶぶ漬に食指を感ずるのである。そこの横丁にある「木の実」へ牛肉の山椒焼や焼うどんや肝とセロリーのバタ焼などを食べに行くたびに、三度のうち一度ぐらいはぶぶ漬を食べて見ようかとふと思うのは、そのぶぶ漬の味がよいというのではなく、しるこ屋でぶぶ漬を売るということや、文楽芝居のようなお櫃に何となく大阪を感ずるからである。
 私の失恋はぶぶ漬が直接の原因になったけれど、一つにはKの女友達の「亀さん」が私を一目見て、なんや、あの人ひとの顔もろくろくよう見んとおずおずしたはるやないの、作文つくるのを勉強したはるいうけどちっとも生活能力あれへんやないのと、Kに私のことを随分くさしたからである。「亀さん」はあるデパートのネクタイ部で働いている女だったが、かねがね、うちは亀さんみたいに首の短い人は嫌いや、鶴みたいな人が好きやねん、亀さんは借金で首まわれへんさかいなど、わけのわからぬことを口走っていたゆえ、私はくやしまぎれに彼女に「亀さん」という綽名を呈したのである。「亀さん」はデパートに勤めているが、父親が強慾でしばしば芸者にされようとしていた。その目で見たせいか、彼女の痩形の、そして右肩下りの、線の崩れたようなからだつきは何かいろっぽく思えたが、しかし、やや分厚い柔かそうな下唇や、その唇の真中にちょっぴり下手に紅をつける化粧の仕方や、胸のふくらみのだらんと下ったところなど、結婚したらきっと子供を沢山産んで、浴衣の胸をはだけて両方の乳房を二人の赤ん坊に当てがうであろうなどと私はひそかに想像していた。間もなく「亀さん」が結婚したという噂をきいて、それきり顔もみなかったが、最近私は千日前の自安寺で五年振りに「亀さん」と出会った。
 千日前自安寺の境内にある石地蔵のことを、つい近頃まで知らなかったのは、うかつだった。浄行大菩薩といい、境内の奥の洗心殿にはいっているのだが、霊験あらたかで、たとえば眼を病んでいる人はその地蔵の眼に水を掛け、たわしでごしごし洗うと眼病が癒り、足の悪い人なら足のところを洗うと癒るとのことで、阿呆らしいことだけれど年中この石地蔵は濡れている。水垢で赤く※[#「金+粛」、第3水準1−93−39]びついていて、おまけに眼鼻立ははっきり判別出来ぬほどすり切れていて胸のあたりなど痛々しい。ときには洋装の若い女が来て、しきりに洗っているとFさんにきいて、私は何となく心を惹かれ、用事のあるなしにつけ千日前へ出るたびにこの寺にはいって、地蔵の前をぶらぶらうろうろした。そしてある日、遂に地蔵の胸に水を掛け水を掛け、たわしで洗い洗いしている洋装の女を見つけた。ふと顔を見ると、それが「亀さん」だったのである。
 父親のこのみで彼女はむかし絶対に洋装をしなかったのであるが、いまは夏であるから彼女も洋装していた。察しのつく通りアッパッパで、それも黒門市場などで行商人が道端にひろげて売っているつるつるのポプリンの布地だった。なお黒いセルロイドのバンドをしめていた。いかにも町の女房めいて見えた。胸を洗っているところを見ると、肺を病んでいるのだろうか、痩せて骨が目立ち、顔色も蒼ざめていた。「亀さん」は私の顔を見ると、えらいとこ見られたと大袈裟にいった。そして、こんどの土用丑には子供の虫封じのまじないをここでしてもらいまんねんというのであった。私はただ「亀さん」の亭主がまかり間違っても白いダブルの背広に赤いネクタイ、胸に青いハンカチ、そしてリーゼント型に髪をわけたような男でないことをしきりに祈りながら、赤い煉瓦づくりの自安寺の裏門を出ると、何とそこは「いろは牛肉店」の横丁で
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