れたような美しさだと思い、ありし日の大阪の夏の夜の盛り場の片隅や、夜店のはずれを想い出して、古女房に再会した――というより、死んだ女房の夢を見た時のような、なつかしい感傷があった。
四
闇市場で売っている蛍を見て、美しいと思ったなどという感傷は、思えば唾棄すべきではあるまいか。だいいち、このような型の感傷、このような型の文章は、戦争中「心の糧になるゆとりを忘れるな」という名目で随分氾濫したし、「工場に咲いた花」「焼跡で花を売る少女」などという、いわゆる美談佳話製造家の流儀に似てはいないだろうか。
蛍の風流もいい。しかし、風流などというものはあわてて雑文の材料にすべきものではない。大の男が書くのである。いっそ蛍を飛ばすなら、祇園、先斗町の帰り、木屋町を流れる高瀬川の上を飛ぶ蛍火や、高台寺の樹の間を縫うて、流れ星のように、いや人魂のようにふっと光って、ふっと消え、スイスイと飛んで行く蛍火のあえかな青さを書いた方が、一匹五円の闇蛍より気が利いていよう。すくなくとも美しい。
それが京都の美しさだ。大阪の妾だった京都は、罹災してみすぼらしく、薄汚なくなった旦那の大阪と別れてしまうと、かえってますます美しく、はなやかになり、おまけに生き生きと若返った。古障子の破れ穴のように無気力だった京都は、新しく障子紙を貼り替えたのだ。かつての旦那だった大阪は、京都ではただで飛んでいる蛍をつかまえて、二匹五円で売っている。みじめというほかはない。
ところが、さすがに大阪だ。京都で一番賑かな四条通、河原町通の商店の資本は、敗戦後たいてい大阪商人から出ているという話である。
最近、四条河原町附近の土地を、五百万円の新円で買い取った大阪の商人がいるという。
焼けても、さすがに大阪だったのだ。――という眼でみれば、大阪の盛り場、闇市場を歩いている時と、京都のそれを歩いている時との感じの違いが、改めて判るのである。京都から大阪へ行く。闇市場を歩く。何か圧倒的に迫って来る逞しい迫力が感じられるのだ。ぐいぐい迫って来る。襲われているといった感じだ。焼けなかった幸福な京都にはない感じだ。既にして京都は再び大阪の妾になってしまったのかも知れない。
東京の闇市場は商人の掛声だけは威勢はいいが、点点とした大阪の闇市場のような迫力はない。
点点としているが、竹ごまのように、一たび糸を巻
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