」は「そうです」を乱暴に言った言葉だが、大阪弁の「そうだ」は「そうです」と全く同じ丁寧な言葉で、音も柔かで、語尾が伸びて曖昧に消えてしまう。けっして「そうだッ」と強く断定する言葉ではない。つまり同じ大阪弁の「そうだす」に当るのである。しかし「そうだす」と書いてしまっては、「そうだ」の感じが出ないし、といって「そうだ」と書けば東京弁の「そうだ!」の強い語感と誤解されるおそれがある。だから大阪弁の「そうだ」は文字には書けず、私など苦心惨憺した結果「そうだ(す)」と書いて、「そうだす」と同じ意味だが、「す」を省略した言葉だというまわりくどい説明を含んだ書き方でごまかしているのである。が、これとても十分な書き方ではなく、一事が万事、大阪弁ほど文章に書きにくい言葉はないのだ。
 大阪弁が一人前に、判り易く、しかも紋切型に陥らずに書ければ、もうそれだけでも大した作家で逆に言えば、相当な腕を持っている作家でなくては、大阪弁が書けないということになる。いや、大阪弁だけではない、小説家は妙に会話の書き方を無視するが、会話が立派に書けなければ一人前の小説家ではない。無名の人たちの原稿を読んでも、文章だけは見よう見真似の模倣で達者に書けているが、会話になるとガタ落ちの紋切型になって失望させられる場合が多い。小説の勉強はまずデッサンからだと言われているが、デッサンとは自然や町の風景や人間の姿態や、動物や昆虫や静物を写生することだと思っているらしく、人間の会話を写生する勉強をする人はすくない。戯曲を勉強した人が案外小説がうまいのは、彼等の書く会話が生き生きしているからであろう。もっとも現在の日本の劇作家の多くは劇団という紋切型にあてはめて書いているのか、神経が荒いのか、書きなぐっているのか、味のある会話は書けない。若い世代でいい科白の書けるのは、最近なくなった森本薫氏ぐらいのもので、菊田一夫氏の書いている科白などは、森本薫氏のそれにくらべると、はるかにエスプリがなく、背後に作者のインテリゼンスが感じられず、たとえば通俗小説ばかり書いている人の文章が純文学の小説の文章とキメの細かさが違う程度に、キメの荒さが目立って、うんざりさせられる。シナリオ・ライターも同様で、日本の映画が見るに堪えぬ最大の原因は彼等の書く科白のまずさである。科白のまずいというのは、結局不勉強、仕事の投げやりに原因するのだろ
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