ドの指揮もし、デザインをやるという奇術師のようなジャン・コクトオですら、小説を書けば極くあたり前の紋切型の小説を書いている。描写があり会話があり説明がありしめくくりがあり、ジャン・コクトオも小説となると滅茶苦茶な型破りは出来なかったのであろう。
 人生もまたかくの如し。生きて行くにはいやが応でも社会の約束という紋切型を守って行かねばならない。足で歩くのが紋切型でいやだといって、逆立ちして歩けば狂人扱いにされるのだ。極道をし尽したある老人がいつか私に、「私は沢山の女を知って来たが、女は何人変えても結局同じだ」といったことがある。「抱いてみれば、どの女の身体も同じで、性交なんて十年一日の如き古い型のくりかえしに過ぎない。変態といっても、人間が思いつく限りの変態などたかが知れていると見えて、やはり変態には変態の型がある」とその老人は語っていたが、数多くの女を知らない私にもその感想の味気なさは同感された。
 人生百般すべて紋切型があるのだ。型があるのがいけないというわけではないが、紋切型がくりかえされると、またかと思ってうんざりすることはたしかである。ベルグソンは笑の要素の一つに「くりかえし」を挙げているが、たしかにくりかえされる紋切型は笑の対象になるだろう。滑稽である。レヴュの女優の科白廻しなども、軽佻浮薄めいているからいけないというのではない。私はジンメルの日記に「人は退屈か軽佻か二つのうちの一方に陥ることなくして、一方を避けることは出来ない」という言葉を見つけた時、これあるかなと快哉を叫んだくらいだから、軽佻を攻撃する気は毛頭持ち合わせていない。レヴュ女優の科白廻しに辟易したのは、その紋切型が滑稽であったからである。ほかにもっと言い廻しようがあろうと思ったのである。しかし紋切型というものはファンに言わせると、紋切型であるために一層魅力があるのかも知れない。レヴュのファンはあの奇妙な科白廻しの型に憧れているのであろう。

      二

 レヴュ女優の紋切型に憧れて一命を落した娘がある。
 もう十年も昔のことである。千日前の大阪劇場の楽屋の裏手の溝のハメ板の中から、ある朝若い娘の屍体が発見された。検屍の結果、死後四日を経ており、暴行の形跡があると判明した。勿論他殺である。犯行後屍体をひきずって溝の中にかくしたものらしい。
 身許を調べると、両親のない娘で、伯母の家に引
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