まった。私は元来実話や美談を好かない。歴史上の事実を挙げて、現代に照応させようとする態度や、こういう例があるといって、特殊な例を持ち出して、全体を押しはかろうとする型の文章や演説を毛嫌いする。ところが、私は「花屋」の話や参ちゃんの話を強調して、無理矢理に大阪の前途の明るさをほのめかすというバラック建のような文章を書いてしまったのだ。はっきり言えば、ものの一方しか見ぬリアリティのない文章なのだ。「花屋」の壕舎も「波屋」の軒店もただ明るいというだけでは済まされぬ。むしろ悲しい大阪の姿かも知れない。私はその悲しさを見て見ぬ振りした自分の美談製作気質にいや気がさしたのである。
それから四ヵ月がたち、浮浪者とインフレと闇市場の噂に昭和二十年が慌しく暮れて行き、奇妙な正月が来た。
三※[#小書き濁点付き片仮名カ、331−上−14]日は一歩も外へ出なかった私も、三※[#小書き濁点付き片仮名カ、331−上−14]日が済むと、はじめて外出し、三月振りに南へ出掛けた。レヴュの放送を聴いて、大阪劇場の裏で殺されていた娘のことを思いだしたためだろうか、一つには「波屋」へ行って、新しく出た雑誌の創刊号が買いたかったのだ。
難波へ出るには、岸ノ里で高野線を本線に乗りかえるのだが、乗りかえが面倒なので、汐見橋の終点まで乗り、市電で戎橋まで行った。
戎橋の停留所から難波までの通りは、両側に闇商人が並び、屋号に馴染みのないバラックの飲食店が建ち、いつの間にか闇市場になっていた。雑閙に押されて標札屋の前まで来た時、私はあっと思った。標札屋の片店を借りていた筈の「波屋」はもうなくなっていたのである。中学生の本箱より見すぼらしい本屋ではとても立ち行かぬと思って、商売がえでもしたのだろうかと、私はさすがに寂しく雑閙に押されていた。
戎橋筋の端まで来て、私は南海通へ折れて行った。南海通にもあくどいペンキ塗りのバラックの飲食店や闇商人の軒店や街頭賭博屋の屋台が並んでいて、これが南海通かと思うと情けなく急ぎ足に千日前へ抜けようとすると、続けざまに二度名前を呼ばれた。声のする方をひょいと見ると、元「波屋」があった所のバラックの中から、参ちゃんがニコニコしながら呼んでいるのだ。元の古巣へ帰って、元の本屋をしているのだった。バラックの軒には「波屋書房芝本参治」という表札が掛っていた。
「やア、帰ったね」
さ
前へ
次へ
全15ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
織田 作之助 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング