はあるまい。レヴュが好きで、文芸部の仕事をしたり、作曲したり装置したりしている人も少くないが、本当に男子一生の仕事と思ってやっているのだろうか、疑わしく思う。「おお!」という間投詞を入れなければ喋れないようなレヴュ俳優の科白廻しを聴いていると、たしかにこれは男子の仕事ではないという気がするのである。
 科白廻しといえば、私は七つの歳にはじめて歌舞伎を見た時、何故あんな奇妙な喋り方をするのだろうかと、奇異な感がしたことを覚えている。高等学校へはいってから新劇を見たが、この時もまた、新劇の役者は何故あんなに喧嘩腰の議論調子で喋ったり、誰もかれも分別のあり過ぎるような表情をしたり声を出したりするのかと、不思議に思った。ところが、レヴュ俳優の科白廻しを聴くと、この方は分別のなさ過ぎる声だったので私は辟易してしまった。
 しかし、発声法に変梃な型があるのは、歌舞伎や新劇や少女歌劇だけではない。声の芸術でそれぞれの奇妙な型に陥ることから免れた例外は一つもないのである。むしろ、それぞれの型に徹したものが一流だといわれているくらいである。新派には新派の型があり、義太夫には義太夫の型、女剣劇や映画俳優の実演にも型があり、浪花節なども近頃は浪花節専門の声色屋が出来ている。講談、落語、漫才など、いうまでもない。ラジオと来た日には、ことに型が著しい。例えば放送員の話術など、日本国中の人間の耳が一人残らずたこになってしまうくらい、十年一日の型を守っている。放送物語の新劇俳優は例によって分別臭い殊勝な声を、哀れっぽく出してどんな物語もすべて悲しいものにしてしまうし、名人といわれる徳川夢声も、仏の顔も二度三度で「風と共に去りぬ」が宮本武蔵と同じ調子に聴える。放送劇の若い娘役は、いつもやけに快活で、靴下に穴のあいたような声を出し、色気があるのかないのか、いや色気などといういい言葉が勿体ないくらいだ。政府の大官はいかなる場合にも屏風と植木鉢を聯想させるような声を出す。座談会の出席者は、討論の相手とマイクとどちらの方へ話しかけていいのかうろうろ迷っているし、共産党員は威勢ばかりで懐疑のない声だ。放送演説の名人といわれていた故永田青嵐ですら、いつ聴いても「私は砕けて喋っていますよ」といった同じ調子が見え透いてうんざりさせられるし、この人を真似た某大官の演説は、砕けすぎて気を許したのか、お国言葉の東北弁ま
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