顔だが、案外に、睫毛が長く、くっきりした二重瞼を上品に覆って、これがカフェ遊びだけで、それもあっという間に財産をつぶしてしまった男の顔かという眼でみれば、なるほどそれらしかった。一皿十円も二十円もする果物《フルーツ》の皿をずらりと卓に並べるのが毎晩のことで、何をする男かと、あやしまぬものはなかったのである。松本自身鉄工所の一人息子でべつにけちくさい遊び方をした覚えもなく、金づかいが荒いと散々父親にこごとをいわれていたくらいだったが、しかし当時はよくよくのことが無い限り、果物《フルーツ》など値の張るものはとらなかったものだった。
 やがて珈琲が運ばれて来たが、坂田は二口か三口啜っただけで、あとは見向きもしなかった。雪の道を二町も歩いて来たのである。たしなむべき女たちでさえ音をたてて一滴も残さず飲み乾している、それを、おそらく宵から雪に吹かれて立ち詰めだった坂田が未練もみせずに飲み残すのはどうしたことか、珈琲というものは、二口、三口啜ってあと残すものだという、誰かにきいた田舎者じみた野暮な伊達をいまだに忘れぬ心意気からだろうと思い当ると、松本は感心するより、むしろあきれてしまった。そんな坂田が一層落ちぶれて見え、哀れだった。
 それにしても落ちぶれたものである。可哀そうなのは、苦労をともにしている瞳のことだと、松本は忘れていた女の顔を、坂田のずんぐりした首に想い出した。
 ちょっと見には、つんとしてなにかかげの濃い冷い感じのある顔だったが、結局は疳高い声が間抜けてきこえるただの女だった。坂田のような男に随いて苦労するようなところも、いまにして思えば、あった。
 あれはどないしてる? どないにして暮らして来たのかと、松本はふと口に出かかるほどだったが、大阪から連れて来た女の手前はばかった。坂田も無口だった。だから、わざわざ伴って珈琲を飲みに来たものの、たいした話もなかった。それでも松本は、大阪は変ったぜ、地下鉄出来たん知ってるな。そんなら、赤玉のムーラン・ルージュが廻らんようになったんは知らんやろなどと、黙っているわけにもいかず、喋っていた。そうでっか、わても一ぺん大阪へ帰りたいと思てまんねんと、坂田も話を合せていたが、一向に調子が乗らなかった。なんとなくお互い気まずかった。女たちは賑かに退屈していた。松本は坂田を伴って来たことを後悔した。が、それ以上に、坂田は随いて来たことを、はじめから後悔していたのだ。もぞもぞと腰を浮かせていたが、やがて思い切って、坂田は立ち上った。
「お先に失礼します」
 伝票を掴んでいた。
「ああそらいかん」
 松本はあわてて手を押えたが、坂田は振り切って、
「これはわてに払わせとくなはれ」
 と、言った。そして、勘定台《カウンター》の方へふらふらと行き、黒い皮の大きな財布から十銭白銅十枚出した。一枚多いというのを、むっとした顔で、
「チップや」
 それで、その夜の収入はすっかり消えてしまった。
「そんなら、いずれまた」
 もう一度松本に挨拶し、それからそこのお内儀に、
「えらいおやかまっさんでした。済んまへん」
 と悲しいほどていねいにお辞儀して、坂田は出て行った。松本は追いかけて、
「君さっき大阪へ帰りたいと言うてたな。大阪で働くいう気いがあるのんやったら、僕とこでなにしてもええぜ。遠慮なしに言うてや」
 と言って、傘の中の手へこっそり名刺を握らせた。女の前を避けてそうしたのは、坂田に恥をかかすまいという心遣いからだと、松本は咄嗟に自分を甘やかして、わざと雪で顔を濡らせていた。が、実は坂田を伴って来たのは、女たちの前で坂田を肴に自分の出世を誇りたいからであった。一時はひっそくしかけていた鉄工所も事変以来殷賑を極めて、いまはこんな身分だと、坂田を苛めてやりたかったのである。が、さすがにそれが出来ぬほど、坂田はみじめに見えた。照枝だって貧乏暮しでやつれているだろう。
「なんぞ役に立つことがあったら、さして貰おうか。あしたでも亀ノ井ホテルへ訪ねて来たらどないや」
 しかし、坂田は松本の顔をちらりと恨めしそうに見て、
「…………」
 しょんぼり黒い背中で去って行った。
 松本は寒々とした想いで、喫茶店のなかへ戻った。
「あの男は……」
 どこに住んでいるのかなどと、根掘りそこのお内儀にきくと、なんでもここから一里半、市内電車の終点から未だ五町もある遠方の人で、ゆで玉子屋の二階に奥さんと二人で住んでいるらしい。その奥さんというのが病気だから、その日その日に追われて、昼間は温泉場の飲食店をまわって空壜を買い集め、夜は八卦見に出ているのだと言った。
「うちへも集めに来なさるわ」
 おかしいことに、半年に一度か二度珈琲を飲んで行くが、そのたび必ずこんな純喫茶だのに置かなくても良いチップを置いて行くのだと、お内儀はゆっく
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