んで歩いたが、豹一はわれにもあらずぎこちなかった。別れしな、
「今夜六時に天王寺公園で会えへん?」紀代子の方から言い出した。その頃、宵闇せまれば悩みは果てなしという唄が流行していた。約束して別れた。
 豹一はわざと約束の時間より半時間遅れて行った。紀代子は着物を着て、公園の正門の前にしょんぼり佇んでいた。臙脂色の着物に緑色の兵児帯をしめ、頬紅をさしていた。それが、子供めいても、また色っぽく見えた。
「一時間も待ってたんやわ」と紀代子は半泣きのまま、寄り添うて来た。
 並んで歩いた。夜がするすると落ちて、瓦斯燈の蒼白い光の中へ沈んで消えていた。美術館の建物が小高い丘の上に黒く聳えていた。グランドではランニングシャツを着た男がほの暗い電燈の光を浴びて、影絵のように走っていた。藤棚の下を通る時、植物の匂いがした。紀代子は胸をふくらました。時々肩が擦れた。豹一にはそれが飛び上るような痛い感触だった。
(女と夜の公園を散歩するなんて、いやなことだ)
 彼はこの感想をニキビの同級生に伝えてやろうと思った。紀代子にそれと分る位露骨に、つと離れて歩いた。そんな豹一が紀代子には好ましかった。(此の少年は恥しがりで、神経質だわ)しみじみと見上げると、豹一の子供じみた顔の中で一個所だけ、子供離れしたところがあった。広い額に一筋静脈が蒼白く浮き出しているのだ。それが物想いに悩む少年らしく見えた。(きっと私のことで思い悩んでいるのだわ!)
 しかし、その瞬間豹一は、こともあろうに、
(お前の母親はいま高利貸の亭主に女中のようにこき使われているんだぞ! いや、それよりも、もっとひどい事をされているんだぞ)と自分に言い聴かせていた。紀代子は着物を着ると、如何にも良家の娘らしかった。(此の女は俺の母親が俺の学資を作るために、毎晩針仕事をしたり近所の人に金を借りたり、亭主に高利の金を借りたりしていることは知るまい。いや、俺が今日此処へ来る前に漬物と冷飯だけの情けない夕食をしたことは知るまい。無論あとでこっそり母親が玉子焼を呉れたが、これは有難すぎて咽喉へ通らなかった。俺の口はしょっちゅう漬物臭いぞ。今も臭いぞ。それを此の女は知るまい。此の香水の匂いをプンプンさせている女は知るまい。俺の母親は銭湯の髪洗い料を倹約するから、いつもむっと汗くさい髪をしているぞ)
 豹一はふっと泪が出そうになった。が、その眼を素早くこすると、また考え続けた。(この女は俺が坐尿したことを知ったら、もう俺と歩きはしまいだろうな)だからこそ、この娘を獲得することは自尊心を満足さすことになるのだと、豹一は漸く紀代子と歩いている自分の役割に気がついた。
(何か喋らなければならない)
 豹一は急に周章て出した。が、どんなことを喋って良いか分らなかった。恋愛小説など読んだことがないのである。獲得だと大それたことを考えてみたところで、それがどんな実際の言動を意味しているものかも分らなかったのである。今更のように、われながらぎこちなく黙々としている状態に気がつくと、もう豹一は紀代子と歩いているのが息苦しくなった。何か気の利いたことを言おう、はっきりと自分の目的に適ったことを言おうと思いながら、少しもそんな言葉の泛んで来ない自分にいら立っていた。彼はだんだん気持が重くなって来て、随分つまらぬ顔をしていた。(お前は女と口を利く術を知らないのではないか?)そんな自分が紀代子の眼にどんな風にうつるだろうかと考えて見た。彼はもう少しで紀代子に軽蔑されるだろうという心配を抱くところだった。が、紀代子の頬紅をつけた顔を見て、僅にその心配だけは免れた。紀代子の日頃の勝気そうな顔は頬紅をつけているので、今日はいくらか間が抜けて見えたのである。(俺はなんという不調法な男だろう)豹一は自嘲していたが、この不調法という言葉が気に入って、やや救われた。しかし彼はそんな心配をする必要もなかったのだ。紀代子は口をひらけば必ず傲慢な、憎たらしいことを言う豹一よりも、おずすおずと黙っている豹一の方が好きなのである。一つには、彼女は苦しいほど幸福といっても良い気持をもて余して、豹一に口を利かす余裕も与えないくらい、ひとりで喋り出したからである。
 文学趣味のある紀代子は、歯の浮くような言葉ばかり使った。豹一が意味を了解しかねるような言葉や、季節外れの花の名も紀代子の口から飛び出した。もし豹一が紀代子の使う言葉の意味が分らない自分を恥しく思い、俺は何と無学だろうと自分に腹を立てているのでなければ、もう少しで欠伸が出るところだった。
(中学生の俺よりも女学生の紀代子の方がむずかしいことを知っているのは、中学校の教育が悪いからだ)
 紀代子がもし聴いたらうんざりするような、そんな無味乾燥なことを考えながら、豹一は退屈をこらえていた。
 紀代子の「気の利いた」文学趣味のある言葉は、しかしそう永くは続かなかった。知っている限りの言葉を言い尽してしまったからである。
 道が急に明るくなって、いつか公園を抜けて、ラジウム温泉の傍へ来ていた。
 毒々しい色の電燈がごたごたとついている新世界の外れだった。
「俗悪やわ。引き返しましょう」
 そして彼女自身もひどく散文的な気持になってしまって、紀代子は豹一の友達が彼女に下手な文章の恋文を送った話などをした。すると、急に豹一の眼は輝いた。
「誰とどいつが送ったんや?」と訊いて、その名前を確めると、もう豹一は退屈しなかった。はじめて自尊心が満足された。豹一は恋文を見せて貰われへんやろかと、熱心に頼んだ。紀代子は即座に承知した。
「そんならあした見せたげるわね」
 それで翌日の約束が出来てしまった。

      二

 そんな交際が三月続いた。が、二人の仲は無邪気なものだった。もし仮りに恋愛とでもいうべきものに似たものがあるとすれば、紀代子が豹一に綿々たる思いを書きつらねた手紙を手渡したぐらいなものだった。つまり、紀代子は彼女の文学趣味を喋るだけでは満足出来ず、文章にして見せたかったのである。手渡したのは、その場で読んで欲しかったからだったのと、さすがに許嫁のある身で、郵送するのははばかられたからである。豹一は紀代子と喋るだけでも相当気骨の折れる仕事だったから、手紙など書いてみようとすら思わなかった。だいいち、それが証拠品となって誰かに嗤われる種となるかも知れないと、警戒したのである。どんな場合でも、彼のそんな警戒心は去らない。
 しかし、彼の自尊心は紀代子から手紙を貰ったことで、かなり満足されていた。自分に課した義務からもう解放されても良い頃だった。少くとも、紀代子への恋文を送った同級生の前では、どんな無茶なことでも言えるのだ。だから、もうあとの交際は半分惰性のようなものだった。実は、少しうんざりしていたのである。ただ、いやな父親の顔を見ているよりは、紀代子と会っている方が気が楽だった位のものである。それともう一つ、豹一にも案外気の弱い、しおらしいところがあって、理由もないのに約束をすっぽかすことが済まなく思われたからである。
 そんな風だったから、二人の仲は三月も続いたが、あとで紀代子が自分に言って聴かせたように、「手一つ握り合わなかった清い仲」だった。豹一にそれ以上のものを求める理由もなかったからだった。紀代子にもたいして恋愛の経験はなく、また生れもよかったから慎しみ深かった。豹一と言えば全く少年だった。それに、豹一にはそんな真似を自ら進んでして、嗤われるだろうという心配があった。そんな臆病な自分を、しかしののしったこともある。
(紀代子がどんな顔をするか、いやがるかどうかを試してみる必要があるかも知れない)
 しかし、もし豹一がその必要をもっと激しく感じたとしたら、元来が向う見ずな男だから、もっと大胆な行動に訴えたかも分らぬ。ところがそれだけは如何なる破目に陥っても出来ぬわけがあった。集金人の山谷からいつか聴いた話が心の底に執拗く根を張っていたから、そのようなことを想い泛べるだけで胸がかきむしられるのだった。
 そんな風に三月続いたのだが、いきなり紀代子は豹一から離れてしまった。まるで何の先触れもなかったのである。豹一は訳が分らなかった。彼はつまらぬ顔をして、毎日そのことを考えた。が、ふと、つまりこれは紀代子のことを考えている勘定になるのではないかと、いまいましくなった。紀代子が鹿の眼のようだとうっとりしていた豹一の眼は、にわかに持ち前の険しい色を泛べ出した。(もっけの幸じゃないか)しかし、それだけでは釈然と出来ぬわけがあった。つい最近彼は紀代子と回転焼屋へ行った。いつも紀代子が勘定を払っていたが、その日に限って彼は、ふと虫の居所の関係で、(お前はこの女に施しを受ける気か?)という気になって自分で勘定を払おうとした。途端に、ズボンから銅貨が三十個ばかり三和土の上へばらばらと落ちた。二銭銅貨が二個あるほかは一銭銅貨ばかりで、白銅一つなかった。彼はみるみる赧くなった。もし落さなかったら、彼は「どや、銅貨ばっかりやろ」とわざとふざけて言って、勘定をすますところだった。それなら如何にも中学生らしいのである。ところが、落してみると、にわかにあのお君の息子となってしまった。紀代子ははッと豹一の顔を見たが、彼を愛していたから、直ぐ膝まずいて、一つ一つ拾ってくれた。そのため豹一は一層恥しい想いをしたのだった。母親がその一枚をこしらえるのにもどれだけ苦労したか分らぬその金を、のんきに女と二人で行った回転焼屋で落した。というだけでも辛かったのに、紀代子にそんな風にされると、もう彼は死ぬ程辛かった。
 だから、そのことはなるべく想い出さぬようにしていた。想い出すたびに、ぎゃあーと腹の底から唸り声が出て来るのだ。しかし、紀代子が自分から去ったかと考えると、否応なしにそこへ突き当らざるを得ない。
(あのために俺は嫌われたのだ)
 しかし、序でに言えば、紀代子はその時真赧になって半泣きの表情を泛べていた豹一の顔ほど、可愛いと思ったことはなかった。従兄と結婚してからも、この時の豹一の顔だけは想い出した位である。
 つまり、紀代子は卒業の、即ち結婚の日が迫って来たのだった。正式の結納品が部屋に飾られたのを見た途端、紀代子はまるであっさりと心が変ってしまった。もともと彼女は、年齢よりも老けた気持をもっており、同級生の中でもいちばん早く結婚するのを誇りにしていたのだった。言わば、それが彼女の美貌を証拠だてるというわけである。豹一の魅力を以てしても、結婚を迎える胸騒がしい彼女の気持に打ち勝つことは出来なかった。それに、もともと豹一にはたった一つの魅力が欠けていた。つまり、「手一つ握り合わなかった清い仲」だったのである。
 紀代子が結婚をするため自分と会わなくなったのだと知ると、豹一はついぞこれまで経験しなかった妙な気持になった。狂暴に空へ向って叫び上げたい衝動にかられたかと思うと、いきなり心に穴があいたようなしょんぼりした気持になったりする。まるで自分でも不思議な、情けない気持だった。彼は未だ嫉妬という言葉を知らなかった。知っていれば、もっと情けなくなったところだった。時にはうんざりした紀代子との夜歩きも、いまは他の男が「独占」しているのかと思うと、しみじみとなつかしくなるのだった。その顔も知らないのがせめてもだった。もし、行きずりにでも見たとすれば、豹一のことだから、一生記憶を去らずに悩まされたところだ。
 豹一は自分が紀代子をたいして好いていなかったことを想い出して、僅に心を慰めた。しかし、今は紀代子の体臭などが妙に想い出されて来るのだった。

      三

 谷町九丁目から生玉《いくたま》表門筋へかけて、三・九の日「榎《えのき》の夜店」の出る一帯の町と、生玉《いくたま》表門筋から上汐町六丁目へかけて、一・六の日「駒ヶ池の夜店」が出る一帯の町には路地裏の数がざっと七、八十あった。生玉筋から上汐町通りへ 」の字に抜けられる八十軒長屋の路地があり、また、なか七軒はさんでUの字に通ずる五十軒長屋の路地があり、入口と出口が
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