には豹一は困った。ひそかに多鶴子に心を寄せているなどとは、ひとは知らず、この自尊心の強い男には、許しがたいことだった。理由が見つからねば、行くことを思い止った方が良いと、豹一は自分に命じたが、これははなはだ無気力な命令だった。その証拠に彼はそう命令してからでも、然るべき理由の発見に頭を悩ました。ふと、彼は矢野の顔を想い出した。縁なし眼鏡の奥からじろりと見たさげすむような眼。眼から眉へかけての濡れたようななまなましい逞しさ。
 豹一はやっと理由を発見した(そうだ。あんな男に負けてなるものか。おれはあの女をものにしてみせるぞ!)
 豹一の考え方はいつもこれだった。が、この時の考え方にはいくぶん嫉妬の気持もまじっていた。それだけに強かった。豹一はだしぬけに頭に泛んで来たこの考え方に従うことにした。これが、「オリンピア」へ行く口実になった。
 そんな豹一の考えを知ったら、多鶴子はぞっとしたであろう。それとも、おかしいと思ったであろうか。しかし、豹一はそんな変な考えを鼻の先にぶらさげて多鶴子の前に現れたわけではなかった。
 やっと口実が見つかってほっとしたというものの、しかし、多鶴子をものにせよ
前へ 次へ
全333ページ中289ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
織田 作之助 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング