突っ立ったまま、暫く動けなかった。紀代子だった。薄暗いところから出て来た豹一には、紀代子が明るい光のなかにいるせいか、思い掛けず美しく見えた。それが豹一の頭に、
(俺はいま失業者だ)と不意に想い出させた。そのため、豹一は一層狼狽してしまった。貸席のある横丁からのこのこ出て来たということも、咄嗟のうちに頭にあった。
 紀代子は直ぐ視線を外らし、飾窓の前を離れて歩き出した。それで、彼女に連れがあることがはじめて分った。彼女は実に簡単に素知らぬ顔をつくっていた。
(亭主だな)豹一は途端に察した。どんな顔をしているか、見てやろうかと、覗いてみたが、極めて平凡な顔だったので、印象がはっきりしなかった。つまり紀代子の亭主は世間にざらにある若い亭主の顔をしていたのである。
 二、三間行くと、紀代子はいきなり振り向いて、ペロリと赤い舌を出した。豹一の自尊心は簡単に傷ついた。丁度自分の身なりの貧弱さを気にしながら、おずおずとあとに随いて行きかけた矢先だったのである。紀代子の舌に噛みついてやりたいぐらいのいまいましさだったが、それが実行出来そうもなかったので、一層口惜しかった。豹一はこそこそと反対の方へ引
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