て、「ヴィクター」喫茶店へはいった。薄暗いいちばん奥のボックスに坐って、そこの八重ちゃんと呼ぶ女の顔をなんとなく見ていた。八重ちゃんはいつもエプロンの袖から白い腕をにゅっと出して、それが生々しく魅力があった。三人いる女のなかで、彼女がいちばん目立っていそいそと立ち働いているのは、つまりそれだけ綺麗だと自覚している証拠なんだと、赤井がいつか言っていたのを想い出した拍子に、赤井の痩せた、線の細い顔が泛んだ。早く金を持って行ってやらぬと、赤井のことやから、余計勘定が嵩むようなことになるやろと、丁度鳴り出したベエートーヴェンの第五交響楽を深刻な顔で聴いた。なにか気持が落ち着かなかったが、しかしそこを出ても金策の当はないと思うと、半分やけみたいな気持で、交響楽が全部済んでしまうまで、じっと坐っていた。出ると、もう財布の中には一銭もなかった。長崎屋の前を通ると、にわかにはいってカステラを食べたくなった。番茶を貰って、日当りの良い窓側で啜りながら、四条通をぼんやりながめていたら、良いやろなと思った。そのために要る十二銭の金が無いことが、嘘みたいに悲しく、腹立たしかった。再び京極を抜け、寺町通の古本屋
前へ
次へ
全333ページ中106ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
織田 作之助 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング