をなめて掛かったのか、委員は、
「推戴式に出ないと、承知せんぞ!」と威喝した。豹一の自尊心にその命令的な態度が突き刺った。
「いやだ! 三高の伝統は自由だとあんた達が日頃言うじゃないか。出たくないものを無理に止める法はないだろう?」
実は最近豹一もかり出されて、野球の練習時間中、意味なく太鼓を敲かされたことがあって、応援団には愛想を尽かしていたのである。しかし、その言葉は上級生に対しては少し礼を失していた。
「生意気言うと撲るぞ!」
「撲れ!」
撲られた。撲った男がしげしげと鎰《かぎ》屋へ通うということをあとで知った時、豹一の眼は異様に輝いた。
間もなく豹一が鎰《かぎ》屋お駒と散歩しているという噂が立った。
六
豹一とお駒の散歩は、赤井に言わせると、飯事《ままごと》に過ぎなかった。つまり豹一《あいつ》は臆病なのだと、簡単に赤井は判断を下した。そんな赤井の肚がわかれば、豹一も改めてなにかの手段を取ったところかも知れぬが、それにしても豹一は余りに恋愛を知らな過ぎた。お駒の方はまだしも、私は一人娘でこの人も一人息子やわ、とこんなことを漠然と考えていた。ところが豹一は真似るべき恋愛のモデルを知らないのである。知っていれば、見栄坊の彼のことだから、そのモデルに従って颯爽と行動することは面白いと思ったかも知れない。それもしかし、彼の記憶の中に根強くはびこっている或る種の嫌悪は、彼が足を踏み外して取乱すことだけは食い止めたに違いないが。つまり彼は流行外れの男だったのである。どんな愚劣な人間でも大した情熱もなしに苦もなくやり遂げて見せることが、彼には出来なかったのだ。だから愛情にかられるということが必要であった。ところが彼は愛情の前で奇妙な困惑を感ずる男だった。人に愛された経験がないのである。自分は人に愛される覚えはないと思い込んでいるのである。
豹一は何のために散歩しているのかわからなかった。元来彼は何ごとにつけても、自尊心の満足ということ以外には意味をつけることは出来ず、お駒との散歩もむろんそこから出たものだったが、たいした効果はなかったのである。一緒に歩いているところを誰かに見て貰えば、それで自尊心が満足されると思っていたところ、見られたために却って自尊心が傷ついてしまった。
ある日、植物園を散歩していると、北園町から自転車で通学している桑部という同じクラスの者に見つけられた。豹一は瞬間緊張して、桑部の眼の色の中に効果を計算しようとした。ところが桑部は自転車の上から、ちらっとお駒と豹一を見並べて、にやりと薄笑いを泛べて通り過ぎてしまった。少しも羨望らしい表情はなかった。桑部は自転車に乗っていたから、案外軽い気持で、二人の顔が見られたのである。呼鈴を鳴らして走って行った桑部のうしろ姿を見て、豹一は桑部はたしかに俺を嘲笑したと思った。
(お駒の顔を見て、なんだあんな女という眼をしやがった!)
豹一はお駒の横顔をじろりと見た。そんな瞬間どんな女でも器量が下って見えるのである。お駒は美しい方だったが、鎰《かぎ》屋の二階で三高生にじろじろ見られている時ほどの美しさは、いま豹一には見えなかった。それにエプロンを外すと、お太鼓の帯も妙にぺったりして、模様の金魚もなにか貧弱だ。かんかんと照っている陽《ひ》が鼻の横の白粉を脂にして浮かせていた。おまけにじっと豹一に横顔を瞶められたので、嬉しさの余り醜いまでにどぎまぎして赧くなっていた。豹一はお駒を醜いと思い込んでしまった。応援団員たちが熱中しているという肝腎のことは咄嗟に泛ばなかった。桑部の視線ばかりが気になっていたのである。それに彼は、はじめて赤井と鎰《かぎ》屋へ行った晩の、お駒の表情や仕草に良い印象をうけていなかったのだ。
(こんな醜い女と歩いているのが、どうやら俺らしいではないか!)
そう思うと、豹一は一ぺんにお駒と歩くのがいやになった。しかし、そういう散歩はずるずると夏休み前まで続いた。案外気の弱い男だったから、むげにお駒をしりぞけることが出来なかったのである。
二学期が来て、高等学校の生徒がそろそろ鎰屋へ顔を見せる頃になっても、豹一の姿だけが現れないとさすがに分ると、お駒はぽかんとしてしまった。自分の顔がだんだん醜い表情を取り出したので、あわてて化粧をしたりした。
(男というものは二《ふた》月も会わないでいると、もうそのひとを忘れてしまうのだろうか?)こんなことを慰めみたいに考えた。が、豹一のことはなぜか恨む気持になれなかった。(あの人は前途ある高等学校の学生さんだもの、私らを相手にしないのは当り前だ)
妙なところで、豹一は三高であることが役立ったのである。豹一は二ヵ月の休暇を利用して、やっとお駒と離れてしまったということに、少し自責めいたものを感じていた。お
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