のやりとりをしていた。
「喧嘩は止し給え」豹一が席に腰を掛けるなり、その一人がそう言って、盞を豹一に向けた。鼻の大きすぎるのが気になったが、感じの良い顔だと思った。もう一人の男が酌をしてくれた。その男は顎が尖っていた。が、べつに悪い感じの顔でもなかった。どちらも若い顔をしていたが、もう四十を過ぎているらしかった。
「君、顔が蒼いぞ」もうぐにゃぐにゃと酔っぱらっている赤井が言った。反吐を吐いたためだったが、豹一は興奮のためだと思われやしないだろうかと心配した。それで、見知らぬ男がついでくれた盞をぐっと飲みほした。
騒いでいた連中は、「第三高等学校万歳! 昭和六年度記念祭万歳!」と気勢を揚げて、乱暴に入口の障子をあけて出て行った。
「あいつらは名刺にも官立第三高等学校第何期生と刷っていやがるだろう」
豹一が言うと、鼻の大きな男は、
「辛辣だな。君達も高等学校なんだろう?」顎の尖った男と顔を見合せて、意味もなく笑った。豹一はむっとした顔をした。
「そんな変な顔をするなよ。どうも君達は気が短い。向うも若いが、君たちも若い。が驚いたね。一人が呶鳴ったかと思うと、一人が飛び出している。呼吸が合ってるね。そこが気に入ったよ」
豹一はこんな風に批評されるのを好まなかった。早く切り揚げようと、赤井に目くばせしたが、赤井はまあ良いじゃないかという顔をした。すると、顎の尖った男が、
「どうです? やりませんか?」と豹一にたにし[#「たにし」に傍点]の佃煮をすすめた。頑として黙っていると、
「遠慮はいらんよ。実のところこれはいくらでもお代りが出来るんでね」
その気取りのない調子が豹一にはちょっと気に入った。やがて、鼻の大きな男が、
「どうだ、この学生と一緒にガルテンへ行こうか」と顎の尖った男に言った。
「良かろう。面白い。可愛いからね」
そして豹一らの分まで無理に勘定を済ませると、
「どうです? 一緒に行きませんか」割に丁寧な物の言い方で言った。
「どこでも行きますよ。畜生!」赤井はやけになってそう叫び、黙ってむつかしい顔をしている豹一の傍へ寄ると、
「行こう。面白いじゃないか。ガルテンと言うのは祇園のことだ。園は独逸語でガルテンだろう?」耳の傍で囁いた。
「僕は帰ります」豹一はだし抜けに言った。
(どうせ、俺らを酒の肴にするつもりだろう? いやなこった。誰が幇間になるもんか。赤井の媚びた態度はなんだ)
意味もなくげらげら笑って、畜生! 畜生! と力んでいる赤井をきっとした眼で睨みつけた。鼻の大きな男は、
「どうして? いいじゃないですか。それとも怖い? なるほど君は未だ若いからね」
若いと言われたことが豹一の自尊心をかなり傷つけた。
「怖いことはない!」
「じゃ、ついて来給え」
渋々承知した。正宗ホールを出て、小路を抜けると、四条通を円山公園の方へ歩いて行った。右側の有名な茶屋のある角を折れて、格子戸のある家へ四人であがった。芸者が四人来た。そのうちの大柄の女が豹一を見て、「まあ、可愛い坊ん坊んやこと。おうちどこどすか?」と言った。豹一は横を向いたまま、
「大阪だ」とにがにがしく答えた。体を動かすと、また吐きそうだったからである。
「まあ大阪どっか。あてかて大阪で生れたんどっせ。さあ唄っておみやすな」
そして芸者は、テナモンヤナイカナイカ、道頓堀よ――と唄った。むろん豹一は唄わなかった。
一時間ほどして、ふらふらと赤井と一緒にそこを出た。残っている二人に挨拶も出来ぬほど意識が朦朧としていた。南座の横のうどん屋へはいって、鯡うどんを食べた。なんとなく、タヌキということが想い出された。出ると、赤井は、
「金《ゲル》を貸してくれ」と言った。ポケットから五円紙幣を掴み出して渡すと、
「君も一緒に行かんか」
「いやだ!」自分も驚くほど大きな声で答えた。赤井の行くところは大体分っていた。たぶん宮川町の遊廓だろう。いやだと答えたのは本能的なものだった。先刻の席で胸苦しくなって、吐くために芸者に案内されて洗面所へ行った時にだしぬけに経験された、唇をなめくじが這うような、焼いた蜜柑の袋をくわえるような、薄気味わるい感触が、ぞっとするいやさで想い出されるのだ。
赤井は、
「じゃあ、行って来るよ。僕を軽蔑するなよ」そう言って身をひるがえすと、川添いの暗闇のなかへ吸い込まれて行った。
豹一は円山公園から知恩院の前へ抜けて、平安神社の方へ暗い坂道を降りて行った。そして岡崎の公園堂の横から聖護院へ出て、神楽坂を登って秀英塾へ帰った。大学の時計台が十時を指していた。義務を果したという安心でホッとすると疲労が来て、直ぐ床を敷いてもぐり込んだ。塾生はちゃんと就眠時間を守っていた。が、塾長の中田は暗闇のなかで目を光らせていて、豹一の口から吐出される「醜悪な臭」
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