早くという眼付きで、豹一を見た。そんな事務的な表情で来られたので、豹一はすっかり狼狽してしまい、考えていた次の言葉を忘れてしまった。いきなり逃げ出して、われながら不様《ぶざま》だった。
不良中学生にしてはなんと内気なと、紀代子は嗤って、振り向きもしなかったが、彼の美貌だけは一寸心に止っていた。(誰それさんならミルクホールへ連れて行って三つ五銭の回転焼を御馳走したくなるような少年やわ)ニキビだらけのクラスメートの顔をちらと想い泛べた。(しかし、私は違う)彼女は来年十八歳で卒業すると、いま東京帝国大学の法学部にいる従兄と結婚することになっており、十六の少年など十も下に見える姉さん面が虚栄の一つだった。
それ故、その翌日から三日も続けて、上本町六丁目から小橋《おばせ》西之町への舗道を豹一に尾行られると、半分は五月蠅いという気持から、
「何か用ですの」いきなり振り向いて、きめつけてやる気になった。三日間尾行するよりほかに物一つ言えなかった弱気を苦しんでいた豹一の自尊心は、紀代子からそんな態度に出られたために、本来の面目を取り戻した。
「あんたなんかに用はありませんよ。己惚れなさんな。ただ歩いているだけです」
すらすらと言葉が出た。その言葉が紀代子の自尊心をかなり傷つけた。
「不良中学生! うろうろしないで、早くお帰り」
「勝手なお世話です」
「子供の癖に……」と言い掛けたが、巧い言葉も出ないので、紀代子は、
「教護聯盟に言いますよ」
近頃校外の中等学生を取締るために大阪府庁内に設けられた怖い機関を持ち出して、悪趣味だった。
「言いなさい。何なら此処へ呼びましょうか」そう言う不逞な言葉になると、豹一の独壇場だった。
「強情ね、あんたは。一体何の用なの」
「用はない言うてまっしゃろ。分らん人やな、あんたは……」大阪弁が出たので、少し和かになって来た。紀代子はちらと微笑し、
「用もないのに尾行るのん不良やわ。もう尾行んときね。学校どこ?」大阪弁だった。
「帽子見れば分りまっしゃろ」
「見せて御覧」紀代子はわざと帽子に手を触れた。それくらい傍に寄ると、豹一の睫毛の長さがはっきり分るからだった。
「K中ね。あんたとこの校長さん知ってんのよ」
「言いつけたら宜しいがな」
「言いつけるわよ。本当に知ってんねんし。柴田さん言う人でしょ?」
「スッポンいう綽名や」
いつの間にか並んで歩き出していた。家の近くまで来ると、紀代子は、
「さいなら。今度尾行たら承知せえへんし」
そして、別れた。
その間、豹一は、(成功だろうか、失敗だろうか?)とその事ばかり考えていた。結局別れ際に、「承知せえへんし」と命令的な調子でたたきつけられて、返す言葉もなく別れてしまった事から判断して、完全な失敗だと思った。しかし、失敗ほど此の少年を奮起せしむるものはないのである。
翌日は非常な意気込で紀代子の帰りを待ち伏せた。紀代子は豹一の姿を見ると、瞬間いやな気持になった。昨日はちょっと豹一に好感を持ったのだが、こうして今日もまた待ち伏せられてみると、此の少年も矢張りありきたりの不良学生かと思われたのである。
紀代子は素知らぬ顔で豹一の傍を通り過ぎた。豹一は駈寄って来て、真赧な顔で帽子を取ってお辞儀をした。すると、紀代子は、
(今日こそ此の少年を思う存分やっつけてやろう。昨日は失敗したが……)
こんな事を自分への口実にして、並んで歩いてやることにした。実は豹一の真赧な顔が可愛かったのである。ところが、豹一はまるで一人で歩いているみたいに、どんどん大股で歩くのだった。真赧になった自分に腹を立てていたのである。紀代子は並んで歩くにも、歩きようがなかった。
「もう少しゆっくり歩かれへんの?」われにもあらず、紀代子は哀願的になった。
「あんたが早よ歩いたらよろしいねん」
(こいつは上出来の文句だ)と豹一は微笑んだ。紀代子はむっとして、
「あんた女の子と歩く術も知れへんのやなあ。武骨者だわ」嘲笑的に言うと、豹一は再び赧くなった。女の子と歩くのに馴れている振りを存分に装っていた筈なのである。
(此の少年は私の反撥心が憎悪に進む一歩手前で食い止めるために、しばしば可愛い花火を打ち揚げる)文学趣味のある紀代子はこう思った。なお、(此の少年は私を愛している)と己惚れた。それを此の少年の口から告白させるのは面白いと思ったので、紀代子は、
「あんた私《うち》が好きやろ」
豹一はすっかり狼狽した。こんな質問に答えるべき言葉を用意していなかったのである。また彼は小説本など余り読まなかったから、こんな場合何と答えるべきか、参考にすべきものがなかった。無論、「はい好きです」とは言えなかった。第一、彼は少しも紀代子を好いていないのである。心にもないことを言うのは癪だった。暫く口をもぐもぐさせ
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