ジウム温泉にはいり、広い浴槽のタイルにより掛って、虚ろな気持で体に湯を掛け湯を掛けしていると、ふと多鶴子のさびのある声をもう一度ききたいと思った。
ラジウム温泉を出ると、公衆電話のなかへ飛び込んだ。五銭白銅を入れて、待っている一瞬、胸さわぎした。多鶴子の電話の声が美しかったことを想い出した。
「通じましたから、お話し下さい」交換手の声に、多鶴子の家の内部が見える思いだった。女中が電話口に出ていた。多鶴子はいるかときくと、
「只今、お留守でございますが……」それでは、やはり昨夜から帰っていなかったのかと、改めて淋しい気持になり、
「あ、そうですか。失礼しました」と、切ろうとすると、女中は豹一の声だと察したらしく、
「あんた、毛利さん? なぜ昨夜お帰りにならなかった? 先生と御一緒じゃなかったの? ――そう? あんたいまどこ? 早く帰って来て下さいな。私ひとりなのよ、淋しいわ」
帰るもんかと、豹一は電話を切った。しかし、帝塚山へ帰らないとすれば、もう豹一の帰るところは、谷町九丁目の家よりほかになかった。
新聞社をやめて、おまけに多鶴子の家で「食客」同様の生活をしていた以上、心にかかりながら、やはり母親に会わす顔がないままにずるずると遠のいて半月も経っていたのである。
いまさら帰れないと、豹一は背中を焼かれる思いだったが、しかし、もはやそこよりほかに帰って行くところがないというより、なんの前ぶれもなしに突然のように姿を消してしまった自分を、身を切られる想いで心配しているだろう母親のやつれた顔を想えば、足は自然谷町の方へ向いた。
さすがにいつもの出入口からようはいらず、「野瀬商会」と暖簾の出ている方からまるで質札を売りに来た男のような態度で、こっそりはいった。
店の間には誰もいなかった。
かつて時々店番をさせられ、質札を売りに来た客の応待をしていた小さなテーブルによりかかって、暫く躊躇っていたが、やがて、「御用の方はこのベルを押すこと」と無愛想な文句で貼紙されているベルを押した。
「へい――」
長くひっぱるような声がきこえて、おいでやすと、やがて母親が出て来た。客に見せる愛想笑いを顔に釘づけながら出て来たのだが、豹一の顔を見た途端、その笑がすっと崩れたが、すぐ、こんどはこぼれるばかりの嬉しい表情が泛びあがって来て、唇がわなわなとふるえ、眼に涙が来た。そして、きんきんした顔で、
「ああ、びっくりした。お前やったんか。どないしてたんや。阿呆やな。こんなところからはいって来る人があるかいな。さあ、あっちからはいらんかいな」叱りつけるように言った。
「ここからでも良えやろ」豹一はぼそんと打《ぶ》っ切ら棒に言った。
それで、母子の挨拶になった。水いらずの気持だった。
「ほんまにどないしてたんや。会社の仕事やったんか。字がなんぼでも書けるんやさかい、手紙ぐらい出さんいう子があるかいな」嬉しさの照れかくしに、そんな風に叱りつけていたが、やがて奥へすっこんで、「豹一が帰って来ましたぜ」安二郎に言っていた。
安二郎の呶鳴りつけるような声が、咳ばらいと一緒にきこえて来た。豹一はちょっと身がすくんだ。その拍子に多鶴子の顔がだしぬけに頭をかすめた。すると、眼の前が血の色に燃えて、安二郎の前に出た豹一の顔は今日はじめての生気を取り戻していた。呶鳴りつけるなら、勝手に呶鳴りつけろといった顔であった。
そんな顔色を見なくとも、安二郎はむろん呶鳴りつけたいところであった。しかし、安二郎はじっと我慢した。
安二郎にとっては、豹一が半月家をあけようと、一月家をあけようと、そんなことはどうでもよかった。ただ、三日前の節季に豹一がいなかったということは、はなはだ残念なことであった。貰うべき下宿代も貰えなかったのだ。それだけが癪だった。だから、顔を見るなり、呶鳴りつけたい気持だったが、しかしさすがに安二郎は慎重だった。下手に呶鳴りつけて、怒らすと再び飛び出してしまうおそれがあると、豹一の気性をのみこんでいたから、お君が嬉し涙をこぼしたほど、口調を柔らげたのである。
「家をあけるのは、そら構へんぜ、しゃけど、きまりだけはきちんとしといてもらおう。節季はもう過ぎてるぜ」それだけを言った。
頭から呶鳴りつけて来るものと身構えていたから、豹一はすかされた気持だった。
(なるほど、金のことを言いやがったわい)豹一は思わずにやりと微笑した。
一見はなはだ和かな風景であった。
「利子をつけてお渡しします」
「いつくれるんね?」
「今夜お渡しします」
「そうか? 間違いなや」
安二郎はちらと上機嫌な表情を見せた。お君が豹一のために食事を出してやっているのを見ても、この際いやな顔はせぬことにした。
母親の給仕でお茶漬を食べていると、豹一はじーんと気が遠くなるほど
前へ
次へ
全84ページ中80ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
織田 作之助 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング