とも、佐古は焼餅をやいて若い男を撲ったと思われなくて済む。
 かつての電機工らしく、佐古は他人を撲る快感を想って、ぞくぞくした。が、ふと思えば、佐古は豹一に弱点を握られているわけだった。
(おれが出たら拙い。あとで新聞に書かれたらわやくちゃになる)そこで、佐古はかねがね「オリンピア」と縁のある道頓堀の勝に依頼することにした。
 道頓堀の勝は頼まれたことを、簡単にやってのけた。わざわざ喧嘩を売るきっかけを求める必要もなかったのである。道頓堀の勝は「オリンピア」が閉店になって、豹一が多鶴子より一足先に出て来るところを待ちうけていたのだが、おいと声を掛けて寄って行ったかと思うと、もう豹一の方から突っ掛って来た。弥生座の裏路次で撲り倒された相手を豹一が忘れているわけもなかったのである。豹一は前後の見境もなく、突っ掛って行ったが、
「二度と再びこの店へ来やがると、承知せえへんぞ!」
 という道頓堀の勝の鼻声をきいた途端に、意識を失った。
 はっと気がつくと、車に乗っていた。傍に多鶴子がいた。いつも豹一が降りることにしていた日本橋筋一丁目はとっくに過ぎていた。
 簡単に撲り倒された醜態を見られたかと思うと、豹一はあのまま死んでしまった方が良いと思うぐらいだった。そして誰にも知られていないが、この前にも一度こんなことがあったと思えば、一層身が縮まり、もう多鶴子にも愛想をつかされたと、しょんぼり気が滅入ったが、車が帝塚山へつくと、多鶴子は泊って行けと意外なことを言った。
「でも……」と、さすがに渋ると、多鶴子は、
「そんな体ではひとりで帰れないわ」
 まるで豹一の体をかかえんばかりにして、車から降ろした。豹一はもう断る口も利けなかった。じかに触れて来る多鶴子の手や肩や胸のかすかな感触のせいばかりではない。そんな風に病人扱いにされることが、消え入りたいほど恥しかったからである。
 倒れるときちょっと頭をうったのは、それに興奮していたせいもあって脆くも意識を失ったのだが、かすり傷ひとつなかったのである。大袈裟に倒れたわりにかすり傷ひとつなかったという点で、豹一はますますしょげて、情けない状態になっているのを、多鶴子はかつ安心し、かつおかしいと思った。
 多鶴子は殆んど夜通し豹一を「看病」した。じつは円タクの運転手からことのいきさつをきいていた。運転手のいうところによれば、撲った男は豹一に、「二度と再び『オリンピア』……」云々といったそうである。だから、運転手の想像によると、撲った男はいろおんなを豹一にとられたのか、それとも「オリンピア」に頼まれてやったのかどちらかだというのであった。それをきいて多鶴子はなにか自分の責任を感じた。だから、「看病」の義務はあると思った。ひとつには、女中が豹一を看病することに異常な情熱を見せたので、多鶴子はなにか気色を損じ、女中に任せきりで置くというわけにいかなかったのである。
 可哀相に豹一は氷枕をあてがわれた。飛びあがるほど冷たかったのと、そんな風に病人扱いにされる恥しさのため、豹一は到頭熱を出してしまった。多鶴子は看病の仕甲斐があったわけである。彼女はすっかり疲労してしまった。
 女中は自分が看病出来ぬので、すっかり多鶴子に嫉妬を感じた。女中は漠然とした不安を抱きながら、眠った。
 この不安は適中した。恥しさのため腹を立てんばかりに逆上してしまった豹一と、疲労のために日頃の半分も理性が働かなかった多鶴子は、ありきたりの関係に陥った。
 戸外は小雪だった。

      二

 昔なら、たとえば平安時代なら、美貌の男女の関係を述べるのに、一頁も要しなかったところだろうが、現代の、しかも頗る自負心の強いこの二人には右のような数々の偶然が必要であった。
 女中が想像するぐらいだから、極めてありふれたことにはちがいないというものの、そうした偶然がなければ、かりにお互いにどれだけ好き合っているにしても、めったにそういう関係に陥らなかったであろう。
 もはやなにひとつ拒むものがなくなってからも、多鶴子は思い出したように、豹一を突き飛さんばかりにした。が、突き飛したといえば、豹一の方も同様であった。
彼の精神状態はいかに逆上しているときでも、全部は朦朧としてしまわないという点で、特異性があった。頑固な牧師のようにひそかに抱いているある種の嫌悪は、その時も敏感な蛇のように鎌首を擡げていた。母親の顔、東銀子の薄い胸細い足、それらが泛んでは消え、消えては泛んだ。そのため、豹一はもっとも楽しかるべきときでさえ、残酷な犯罪を犯したあとのようなけわしい表情になっていた。嫌悪しているものに逆に惹きつけられるという、捨鉢な好奇心は彼に慟哭の想いをさせてしまったのである。
義務を果したという、自尊心の満足もこの時はてんで役に立たなかった。なぜな
前へ 次へ
全84ページ中74ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
織田 作之助 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング