いって行った。
「らっしゃいませ」
 ひどくはすっぱな声がしたので、びっくりして顔をあげると、厚化粧をした女の顔が五つ、六つ赤い色の電燈に照らされて、仮面のようにこちらを向いていた。カフェではなかったかと、豹一は思わず入口の方を振り向いたが、カウンターが入口にあるところや、女たちが皆突っ立っているところを見ると、そうでもなさそうだった。しかし、それにしてもまるでカフェのような喫茶店だと思うと、豹一は逃げ出したくなった。この際ミルクホールのようなしょんぼりした喫茶店でぽかんとしているのが適しいのである。が、うかうかと間違ってはいった以上、こそこそ逃出して、似顔画描かなにかと思われては癪だと、ルンバの音を腹立しく聴きながら、隅の方の席へ坐った。
 女たちはいずれもあくどい色のイヴニングを着て、ルンバに合せて、妖しく尻を振っていた。例外なしに振っているところを見ると、営業者の命令であるのかもわからなかった。安来節踊りの腰付きのようなものもあれば、レヴューガールのような巧妙なのもあった。が、いずれにしても醜悪を極めていた。ふと女たちの眼が一せいに自分に注がれているのに気がついた。豹一は自分の眼の方向を見抜かれたと思い、みるみる赧くなった。
 ところが、女たちが彼の方を見ていたのは、彼が実に一風変っていたからである。彼はまるで飯屋へ入るような容子で、ここへはいって来たのだ。普通男たちは例外なしに、多少とも気取ってはいって来るものである。わざと何気ない顔を渋くつくろう方などは良い方で、レコードの調子に合せてステップを踏みながら席につくなど、ざらである。帽子に手をかけたり、ネクタイにさわったりするのが十人のうち六人ぐらい。友達づれは、たいていわざとらしく話をしながらはいって来るか、誰か一人が女の立っている傍の席を見つけると、他の者がへっへと笑いながら随いて来る。女と顔見知りの者は「あいつ来てへんかったか」といいながら来るのが十人のうち四人。黙って顔をにらみつけながらはいって来るのが四人。あとの二人は、「どうぞこちらへ」というまで坐らない。
 ざっとこんな風だったから、豹一のようになんの気取りもなしに、行きつけの飯屋へはいるような容子でぶらりとはいって来るのは珍らしいのである。実は元来気取り屋の豹一も、ここへはいって来る瞬間、さすがに気取るだけの心の張りを無くしていたのである。だから、随分人眼をひいた。おまけに彼は美貌だった。つまり彼女たちに言わせると、一風変っていたのである。
 眉毛を細く描いた眼の細い女が、豹一のテーブルへ近づいて来て、
「あんた、ボタンがとれちゃってるわよ」と、豹一の上衣にさわった。彼女も、もし豹一が赧くなっているのでなかったら、こんな風に馴々しくしなかったのだ。普通、若くて美しい男は蒼い顔をして、じっと眼を据えているものである。つまりどこか不良くさいと、一応は敬遠されるものだ。豹一はおどろいて、上衣を見た。二つともボタンがとれていた。一つは戎橋の上でちぎって捨てた記憶はあるが、あとの一つはどこでとれたのかわからなかった。
「恋人につけて貰いなさいよ。みっともないわよ」私がつけてあげますよと言わんばかりだったが、そんな眼つきがわかるほどには、豹一はすれていなかった。
「恋人なんかあるもんか」殆んど口に出かかった言葉をぐっとのみ込んだ。紀代子のことがちらりと頭に泛んだからである。恋人がないということが、この際なにか恥しいことのように思えた。なお、ボタンがとれていることも、なにか失業者じみている。だいいち、上衣のボタンの無いのが眼につくのは、寒空にオーバーも着ていないというはっきりした証拠になる!
(よし、この女を恋人にしてやる)
 だしぬけにそう決心した。みっともないと言われたことが、我慢がならなかった。おまけに東京弁だ!
「どうしてとれちゃったの?」女はなおも上衣にさわっていた。香油の匂いが鼻をついた。豹一は顔をしかめた。
(まるで質屋の小僧のように俺の洋服を調べてやがる)豹一の決心はいよいよ固くなった。かつて、毎日質屋へやらされたことを腹立しく想い出した。続いて、かつてのさまざまなみじめな出来ごとが、次から次へ頭へ泛んで来た。
(こんなみじめな俺が衆人環視のなかで、この女を恋人にして見せるのは、面白い)
 紀代子の顔を撲れなかった代償としても、充分やり甲斐のあることだと、豹一は胸を熱くしていた。が、衆人環視のなかで、恋人にしてみせるとは、いったいどんなことなのか、豹一にはわからなかった。ふと、顔が赧くなるような、乱暴なことを思いついた。が、さすがに実行出来なかった。それどころか、物を言おうとすると、体が固くなって来た。
(こんなことでは駄目だぞ! よし、百数えるうちに、この女の手をいきなり掴むのだぞ)そう言い聴かせた。
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