報いられた気持がした。
「お前みたいな疳癪もちの子でも、よう使てくれはるな。有難いこっちゃ」お君はそう言った。
「ほんまにいな」そんな大阪弁で豹一も笑いながら言った。
「月給を貰うのやさかい、お前も洋服こしらえたらどないや?」
「いや、構へん。これで結構や」
 今まで高等学校の制服をボタンだけつけかえて通して来たのだった。元来が見栄坊の彼だから、体裁の悪さは存分に感じて来たのだが、この際余計な金は使いたくないと我慢していたのだった。が、結局母親が執拗く薦めたので、月賦払の洋服をつくることにした。
 縞のワイシャツの上へ地味なネクタイをしめて、上衣のボタンを丁寧に二つもはめると、如何にもお勤人らしくなった。その姿でびっしょり汗をかきながら出社すると、社長は、「これは、これは」と、驚いた顔をして見せた。社長は褌一つだった。
 豹一は暑いというのを理由に、上衣を脱ぎ、往復にも肩に担いだ。それではじめて新調の洋服を着ているという気恥しさから免れた。が、不器用な彼はネクタイが上手に結べなかったので、道を歩きながらでもしょっちゅうネクタイの結び目へ手をやっていた。だから、誰も彼を一眼見れば、彼がお洒落男か、それともはじめて洋服を着た男であるかのどちらかに違いないと、簡単に見抜けたわけである。
(はじめて背広を着る気持は、葬式の日に散髪するようなものだ)
 当分の間、彼はこんな風に洋服に拘泥っていた。電車の中でも、道を歩いていても、人の洋服ばかりに気をとられていた。つまり、自分より年をとった人ばかり、それも大抵お勤人ばかりを注視していたのである。
(あの会社員らしい男は、夜寝る時ズボンを蒲団の下へ敷かないらしい)等々。自然、豹一の感情はだんだん分別臭くお勤人じみて来た。帽子屋の飾窓の前に立って、麦藁帽など物色しないのが、まだしもだと言えるぐらいだった。
 日が暮れて、とぼとぼと帰る途、下を向いて歩く習慣がついた。
「心身共に疲労した。心身共に疲労した」豹一はそんな言葉をぶつぶつと呟きながら歩いた。三高にいた時、漢文の教師から「君は心身共に堕落している」と言われたことがあった。それを、なんということもなしに思い出していた。その時教室の中でケッケッと笑っていた。そんな元気はいまは無かった。
 まるで泳ぎつくようにして、日曜を待ち焦れた。が、日曜が発送日に当っていることもあった。すっかり悄気てしまうのだった。休むわけには行かず、夜おそく新聞を畳んで、郵便局までリヤカーにのせて持って行くのだった。翌日、代休を申出る勇気もなかった。二週間打っ続けに働いて、やっと休みになると、漫才小屋へ行った。他愛もなくげらげら笑って、浅ましかった。月末になると、こともあろうにひそかに昇給を期待する顔をして、一層浅ましかった。たいして骨惜しみせずに、こつこつ働いているとわれながら感心していたぐらいだし、しかも記事など永年の経験者である社長よりも上手だったから、ひょっとしたらという気があった。しかし、やはり社長は五厘切手一枚のことにも目の色をかえる男であった。昇給どころか、豹一が原稿用紙を乱暴に無駄使いするので、口実さえつけば減俸してやりたいぐらいに思っていたのである。
(なまじっかお情けに一円ぐらい昇給させて貰って、愚劣な喜び方をするよりは、いっそ永久に昇給しない方がましだ)そう思ってみたものの、矢張り月給袋の中を見ると、なにか侮辱されたような気持がして、ひそかに社長に腹を立てた。が、そんな自分にはさすがに一層腹が立った。
(お前も随分卑俗な人間になってしまったではないか)
 もはや自分が許しがたい人間になってしまったと、豹一はがっかりした。何故こんな風になったのかと考えてみたが、分らなかった。もともとはじめから、彼は働くことの面白さなどという贅沢なものを味わなかった。いきなり帯封書きだったのである。だから、毎日が実に退屈な、無気力な日々の連続であった。昇給のことでも考えているよりほかに、致方がなかったのである。彼にとって不幸なことは、彼が同僚というものを持たなかったことである。社長、園井、自分、この三人しか社にいなかったが、園井はもはや昇給のことは諦める気持を十年養って来て、いまはもっと大きな野心で、ふくれあがっている。つまり、誰も昇給のことに血眼になる者がいなかった。だから、豹一ひとり知らず知らずそんな風になってしまったのである。いわば、独立の道を切りひらいたのである。
(少しも昇給しないのは侮辱されているようなものだ)
 もし、自分の周囲に昇給のことをしょっちゅう考えているものがいたら、彼はてんで昇給など問題にしなかったところである。
 豹一はまる一年半、性こりもなく昇給を期待していたのである。(こんどこそ、昇給しなければここを廃めるんだぞ)そう言い聴かせてから
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