は何だね?」
「はあ」豹一はさすがにもじもじしていた。その赧くなっている顔をH教授はちょっと可愛いと思った。独逸に留学していた時、こんな顔をした中学生がビールの飲み競べをやっていた。こいつは余り飲めそうにもない。姉の結婚式で二、三杯盞をなめて、ふらふらになって泣き出す手合だろう。
「僕は朝から算盤を手から離したことがないんで。点数の勘定で忙しいんだよ。用件を早く言ってくれ給え」
「はあ、その点数のことなんですが」
「点数のことは致し方ないよ、どうにもならないよ」
「なりませんか? そうですか」豹一は思わず立ち上りそうになった。人に頭を下げるのがいやなのである。が、さすがに、これは思い止った。実は、朝から赤井、野崎らと手わけして悪い点を取りそうな教授を訪問しているのである。赤井は日頃H教授に睨まれているし、野崎はひどく成績が悪そうだし、三人のなかでは比較的成績のましだと思われる豹一がH教授訪問の役に当ったのである。その役を果さぬうちはやはり帰れなかった。
「実は赤井と野崎のことなんですが、先生の独逸語の成績がひどく悪いらしいのです。――二学期はわりに良く出来たんですが、一学期の点が悪いんです。他の科目は注意点を免れましたが、先生の点だけが、――独逸語で落第しそうなんです。なんとか及第点にしてやっていただけないでしょうか」
 考えていた言葉をやっとの想いで言って、H教授の顔を見上ると、H教授は薄気味わるく笑っていた。二学期の成績が良かったという豹一の言葉がおかしかったのである。二、三日前答案を採点していた時、H教授は三人の答案が一字一句違わないことを発見して、あきれてしまった。赤井と野崎が豹一の答案を写したに違いないと思った。三人の中では豹一がややましに出来るのだった。H教授は先ず豹一の点を零点にした。他の二人は一学期の点をそのままつけた。すると三人とも二学期を平均して落第点になった。豹一を零にしたのは、もし及落会議で問題になったら助け舟を出してやるつもりでいたからである。
 H教授はくつくつとこみ上げて来るのを我慢しながら、
「赤井と野崎の点をあげてくれというわけだね?」
「はあ」
「君はどうなんだ?」
「僕は……」大丈夫だというその顔がH教授にたまらなくおかしかった。たまりかねて、下を向き、膝の上の成績を仔細に見る真似をして、
「ところが、君の方の点がわるい」わざと渋い声で言うと、
「えッ?」案の定驚いた顔をした。
「赤井は三十八点、野崎は三十七点、君は三十六点だ。君がいちばん悪い」
 そう言ってやると、すごすごと帰って行ったそのことを、H教授は想い出したのである。手土産に三人の名前がはいっているのもおかしかった。H教授は三人の仲の良さにちょっと微笑ましいものを感じた。及第させるならば、三人とも及第させてやりたい、一人だけ欠けると可哀相だという気持だった。豹一が自分の点で落第しそうだったら助け舟を出して他の二人と一緒に及第させてやるか、それとも三人を落第させてやるか、どちらかだと思っていた。が、欠席日数超過で三人とも落第と決ったので、なにか満ち足りた気持がしたのである。
「毛利は出来る科目もあるが、彼は秀英塾だね」と誰かが言った。秀英塾の生徒は皆秀才だということになっていた。
「余っぽど、怠けたのだね、毛利は」誰かが答えた。
「すると、三人とも落第――?」
「異議なし」
 秀英塾では落第すると給費を中止するという規定を教授達はみな知っていた。が、誰も想い出さなかった。そうして三人の落第は簡単に決定した。
 教員室の壁に小さく貼出された紙を見て、落第だとわかると三人は赤井の発言で早速受持の教授を訪問することにした。下鴨にある教授の家の玄関で待っていると、教授が和服のまま出て来て、突っ立ったまま、
「どうもお気の毒だが、決ってしまったものは致方ない。僕も頑張るだけは頑張ってみたのだが、欠席日数があれではね」その癖その教授は彼等の落第を主張した一人だった。受持の教授が自分のクラスの生徒の落第を主張するのはおかしいと、眉をひそめた教授もあったくらいである。
 玄関での立ち話では、三人とも頼むべきこともろくに頼めなかった。阿呆らしい気持で早々に辞すと、足は自然に京極の方を向いた。途々、赤井はひとりで興奮していた。豹一はわりに平静な気持だった。落第と決れば秀英塾から追放されることは免れ得なかった。もう三高生活もこれでおさらばだと、彼ははじめから受持の教授を訪問する気持もなかったのであった。野崎はおかしい程悄気ていた。まるで泣き出さんばかりの顔をしていた。
 そんな野崎の気持は赤井や豹一にははっきりわかっていた。今度の落第は野崎に原因していると、言えば言えないこともなかった。野崎は三人の欠席日数をノートにつけていたのである。誰も野崎の計算を
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