井の媚びた態度はなんだ)
 意味もなくげらげら笑って、畜生! 畜生! と力んでいる赤井をきっとした眼で睨みつけた。鼻の大きな男は、
「どうして? いいじゃないですか。それとも怖い? なるほど君は未だ若いからね」
 若いと言われたことが豹一の自尊心をかなり傷つけた。
「怖いことはない!」
「じゃ、ついて来給え」
 渋々承知した。正宗ホールを出て、小路を抜けると、四条通を円山公園の方へ歩いて行った。右側の有名な茶屋のある角を折れて、格子戸のある家へ四人であがった。芸者が四人来た。そのうちの大柄の女が豹一を見て、「まあ、可愛い坊ん坊んやこと。おうちどこどすか?」と言った。豹一は横を向いたまま、
「大阪だ」とにがにがしく答えた。体を動かすと、また吐きそうだったからである。
「まあ大阪どっか。あてかて大阪で生れたんどっせ。さあ唄っておみやすな」
 そして芸者は、テナモンヤナイカナイカ、道頓堀よ――と唄った。むろん豹一は唄わなかった。
 一時間ほどして、ふらふらと赤井と一緒にそこを出た。残っている二人に挨拶も出来ぬほど意識が朦朧としていた。南座の横のうどん屋へはいって、鯡うどんを食べた。なんとなく、タヌキということが想い出された。出ると、赤井は、
「金《ゲル》を貸してくれ」と言った。ポケットから五円紙幣を掴み出して渡すと、
「君も一緒に行かんか」
「いやだ!」自分も驚くほど大きな声で答えた。赤井の行くところは大体分っていた。たぶん宮川町の遊廓だろう。いやだと答えたのは本能的なものだった。先刻の席で胸苦しくなって、吐くために芸者に案内されて洗面所へ行った時にだしぬけに経験された、唇をなめくじが這うような、焼いた蜜柑の袋をくわえるような、薄気味わるい感触が、ぞっとするいやさで想い出されるのだ。
 赤井は、
「じゃあ、行って来るよ。僕を軽蔑するなよ」そう言って身をひるがえすと、川添いの暗闇のなかへ吸い込まれて行った。
 豹一は円山公園から知恩院の前へ抜けて、平安神社の方へ暗い坂道を降りて行った。そして岡崎の公園堂の横から聖護院へ出て、神楽坂を登って秀英塾へ帰った。大学の時計台が十時を指していた。義務を果したという安心でホッとすると疲労が来て、直ぐ床を敷いてもぐり込んだ。塾生はちゃんと就眠時間を守っていた。が、塾長の中田は暗闇のなかで目を光らせていて、豹一の口から吐出される「醜悪な臭」
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