いてひっそりと奥深く、見知らぬ人の出はいりにもじろりと眼を光らせねばならぬしもたやでは出来ぬ商売だった。そんなところへ安二郎の言葉を借りて言えば、「運良く隣の家が空《あ》いた」のである。
 東西屋も雇わず、チラシも配らず、なんの風情もなくいきなり店開きをしたのだが、もうその日から、質札を売りに来た。ベルの音が隣の家まで通ずる仕掛になっている。安二郎はのっそりと腰を上げて廊下伝いに新店の二階へ出て、階段を降り、夏の土用以外に脱したことのない黒い襟巻を巻いた顔をぬっと客の前へ出すのだった。じろりと客の顔を見て椅子に腰を掛け、客には坐れとも言わずに質札を虫眼鏡で仔細に観察してから、質屋の住所と客の住所姓名を訊く。終ると、「金は夕方取りに来とくなはれ」と無愛想に言って、腰を上げると、取つく島のない気持でぽかんとしている客の顔を見向もしないで階段を上り、再び廊下伝いにもとの部屋に帰ってしまうのである。
 豹一は学校から帰ると、その応待をやらされた。実はこんどの二階の部屋は豹一の部屋になったのである。安二郎の鼾が聴えて来ないことは有難かったが、ベルの音には閉口した。勉強の途中でも立たなければならなかったのである。そして客から質札を受け取ると、安二郎に見せに行く。それがたまらなくいやだった。どうしても安二郎と物を言わなければならぬからだった。なるべく安二郎とは口を利かぬようにしていたのである。
(自他ともにその方が得だ)と考えていた。自分も不愉快だから、安二郎も自分と口を利くのは不愉快だろうと、彼は口実をつけていた。しかし、安二郎は豹一をただお君が連れて来た瘤ぐらいに考えていたから、豹一の子供だてらの恨みなどには無縁だった。少くとも豹一が考えているほどには、豹一の気持など深く考えていなかった。自分の事をどう思っていようと、飯はあんまり食わぬようにしてくれさえすれば、べつに文句はないのである。中学校での行状がどうであろうとも、学資を出してやっているわけではない。ただ近頃はやっと家の用事に間に合うようになって、「猫の子よりまし」なのである。例えば、客の応待はしてくれる。質屋への使いに行ってくれる。
 その質屋への使いだけは勘弁してくれと、豹一は頼みたかった。が、そのためには安二郎に頭を下げる必要がある。それがいやだった。豹一はむっとした顔で、渋々質屋へ行った。丁度運悪く紀代子のことで
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