慧かと矢野が恨めしかった。はじめて来たときのあの矢野の尊大な態度がいつまでも想い出されるのだった。いまも母親はその晩のことを想い出し、ふっと不安な眼を二階へ向けた。が、
「お客さんは誰……?」とはきけなかった。
そんな母親の気持を多鶴子は敏感に察した。
「お客さんがあるのよ……」自分の方から言い出して、
「新聞社の方よ。私の尾行記を書きたいんですって。うるさいのね。新聞記者って……。だけど、行かないとわるいから、ちょっと顔出しして来るわ」
そして、先に寝んで頂戴と、次の間にはいって、イヴニングを和服に着替えながら、多鶴子はそんな風に言ったことを、若い新聞記者にはちょっと済まなく思った。そのため彼女は美しい女特有の本能から、念入りに化粧をしなおした。
「どうもお待たせしました。――先ほどはありがとうございました」
そして、向い合って腰を下すと、豹一が出された珈琲に手をつけていないのに素早く気がついて、
「さあ、どうぞ。冷めないうちに……」しかし、待たされている間に、すっかり冷たくなっているのに気がつき、
「あら、もう冷たくなっちゃいましたね。御免なさい」尻あがりの口調で言って、女中を呼ぶためにベルを押した。全く申分ないほど、愛相がよかったのである。
若い女中は一目見た途端に、豹一を好いてしまった。映画女優のところへ女中に雇われるだけあって、彼女は非常に映画趣味があったから、ぶくぶくのオーバーを不恰好に身につけた豹一を見ると夜ふけのせいもあって、此の美少年は「男装の麗人」ではなかろうかと思ったほどである。全くだしぬけにはしたない恋を感じてしまった女中は、可哀相におどおどして応接間へ現れた。珈琲茶碗を差出すのがたまらなく恥しかった。汚い手を見せねばならぬからであった。
ところが、もし豹一が幾分でもこの女中に惹きつけられるところがあるとすれば、それは彼女が大急ぎでべたべたにぬりつけた鼻の頭ではなくて、彼女が見せるのを憚った、赤切れた汚い手だったかも知れない。豹一にとっては、それだけ切りはなして見ただけでも、その手は胸をうつに充分だった。母親の手を連想するからであった。ところが、豹一はその手を豪華な装飾に輝いている応接間で見た。豹一は一層胸を打たれて、弥生座の舞台で踊っていた東銀子の赤い足を不意に思い出した。豹一は思わず涙が落ちそうになったのを、周章ててその部屋に対
前へ
次へ
全167ページ中130ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
織田 作之助 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング