は多鶴子の言うままになるより仕方なかった。そんな夜更けの住宅地では、もう帰る車を拾うのも容易ではないと諦めた。しかし、その夜更けという点で、豹一もこだわっていた。「夜分のことで……」と、さっき多鶴子も言った筈だった。が、豹一は、僅かに仕事という点を自分への口実にすることが出来た。ひょんなところで新聞記者であることを自覚するところを見れば、まだまだ豹一は新聞記者ではなかった。
 自動車の音でそれと気づいたらしく、玄関に灯がつけられた。
「只今!」多鶴子が声をかけると、
「お帰り遊ばせ」なかから女中の声がして、戸をひらいた。
「どうぞ! お先に……」
 言われて、豹一が玄関にはいると、女中が頭を下げていた。そろえて下しているその手を見て、豹一はおやっと思った。痛々しく赤ぎれて、ところどころ血がにじんでいるとも見えた。豹一はだしぬけに母親のことを想い出した。胸がしめつけられる思いだった。
 多鶴子は女中に命じて、豹一を応接間に案内させると、階下の日本間にいる母親のところへ顔を出した。
「お帰り」母親は長火鉢の前に背中を猫背にまるめて、ちょこんと坐っていた。
「未だ起きていらしたの?」
「いや。いま寝ようと思っていたところだよ……」母親はなにか狼狽して、「……炬燵が熱すぎたので、外へ出して冷ましてから寝ようと思って……」
 そんな風に弁解する母親が、多鶴子はおかしいと思うより、むしろつんと胸にこたえて悲しかった。昨夜も多鶴子が帰るまで寝ようとしなかった。長火鉢の前でじっと坐ったまま、欠伸ひとつせず待っていてくれたのかと、多鶴子はそんな母親の心配がむしろ悲しく心配しないでも良い、大丈夫だ、さきに寝ていてくれと、あれほど言ったのである。ところが、やはり今夜も起きて待っていた。そして心配の余り寝られなかったという気持をごまかすために、炬燵なんかひきあいに出しているのだ。以前はこんな風ではなかった。撮影の都合で帰宅がおくれるなど珍らしくなく、思いがけぬ徹夜撮影で家をあけることさえあったのだが、わざわざ電話で断るまでもなく、母親は安心して寝ていたのである。
 女優になる前ダンサーをしていた頃もそうだった。ダンサーになりたての頃、一度無断で家をあけたことがあった。女友達の下宿で長話をしている内に電車がなくなり、泊めてもらったのだが、夜なかに公衆電話が掛って来た。母親から掛けて来たのだっ
前へ 次へ
全167ページ中128ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
織田 作之助 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング