。濡れたのである。
 試験中三時間も子供たちを閉じこめて置くので、こんなことは屡※[#二の字点、1−2−22]あることだから、監督の教師は無表情な顔で坐尿の場所へ来た。教師は黙って拾い上げた。机の上へ置いて、また教壇の方へ戻って行った。しかし、豹一は、教師は俺の顔と答案用紙の番号を見較べた、と思った。途端に落第だと諦めた。
 ところが運良く合格した。つまり難なく中学生になったのである。すると、改めて坐尿のことが苦しくなって来た。入学式の時、誰かあのことを知っているだろうかと、うかがう眼付きになった。試験の時だったからお互いに未だ顔を見知っていなかったが、一人二人素早く見覚えていた奴はあるに違いないと思った。その時の監督の教師は国語を担当していて、豹一の教室へも一週間に四度やって来た。そのたびに、豹一は身を縮めて、ばらされやしないかと冷やひやしていたのである。
 もう一つ、こんなことがあった。同級生間で、誰がどんな家に住んでいるか見届けようと、放課後探偵気取りで尾行することが流行した。ある日、豹一にも順番が廻って来た。家の構えはともかく、高利貸の商売をしているのを知られるのがいやで、尾行《つけ》られたと気付くと、蒼くなって曲り角からどんどん逃げた。家へ駈け込むとき、軒先へ傘を置き忘れた。果して、
「毛利君! 毛利君! 出て来い」表で呶鳴る声が聴えた。豹一は二階で犯人のように小さく息をこらしていた。顔を両手の中に埋め、眼を閉じていた。表札が「野瀬」となっていることも辛かった。
 そんなことがあって見れば、箔をつける必要も充分あった。しかし、よりによって許嫁があるなどと言い触らしたのはなんとしたことか。許嫁があると言い触らすことによって、家庭的に恵まれている風に見せたかったのだが、未だ一年生の同級生を相手では、効果はなかった。許嫁を羨しがる早熟な者もいなかったのである。やがて、だんだんに馬鹿にされていると気がつくと、もう首席にでもなるよりほかに、自尊心の保ちようがないと思った。
 豹一は顔色が変る位勉強した。自分の学資をこしらえる為に夜おそく迄針仕事をしている母親のことを考えれば、いくら勉強しても足りない気持だった。試験前になると、お君は寝巻のままでお茶と菓子を盆にのせて机の傍へ持って来てくれた。そんな風にされるのが豹一には身に余って嬉しいのである。たとえそれが母親にしろ
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