、八十五、八十六、……」
 色電球の光に赤く染められた、濛々たる煙草のけむりの中で、豹一の眼は白く光っていた。
「八十七、八十八、八十九……」
[#改段]

 第二部  青春の逆説

    第一章

      一

「……九十、九十一、九十二、九十三……」
 唱名のように声をだして、豹一は数を読みつづけて行った。
 豹一は顫えていた。声まで顫えていた。
 いつもの豹一ならそんな自分を許しがたいと思ったところだ。いつ如何なる場合にも声が顫えるようなことは金輪際あってはならないのだ。それが豹一の掟だった。いったいにわれにもあらず興奮した姿を見せるのは、かねがね醜態ということに決めているのである。だいいち、この場合声を出すことすらいけないのである。百読む間に女の手を握るという思いつきは、余り賢明な思いつきとはいえないが、それは兎も角、数を読むならば黙って読めば良いのである。動物的に浅ましく声を出し、おまけにその声が顫えるなど以ての外である。
 しかし、無我夢中になっていた豹一には、そこまで気がつく余裕はなかった。いわば耳かきですくうほどの冷静さも残っていなかった。興奮をおそれなくなるほど、興奮していたのである。
「……九十四、九十五、……」
 相変らず、いやな声を出していた。
「……九十六、九十七、……」
 あと三つで百だと思うと、むしろ情けなかった。百になれば、女の手を握らなくてはならない。この死ぬほどの辛さと来ては、百ぺん失業した方がましだと思うぐらいだった。
 だいいち豹一にはついぞこれまでどの女の手を握った経験もない。友人と握手するのさえ照れる男である。それが初対面の女の手をいきなり握ろうというのだから、いってみれば無暴だった。しかも豹一は坐っていて、女は立っている。物かげでこっそり握るというわけにはいかなかった。衆人環視のなかである。たとえどさくさまぎれで握るとしても少くとも二つの眼だけはそれを見逃すまい。挑み掛るようにじっとこちらを睨んでいる二つの眼、――いまさき煙草の銀紙をまるめて投げた男だ。しかし、それよりも豹一がおそれているのは、手を握ろうとして女にはねつけられた場合のことである。
「いやな人!」と、逃げられたら、自尊心を傷つけられた想いに先ず当分は悩まなくてはならない。いや、逃げられるぐらいならまだ良い方だ。「キャッ!」と、声を立てられたりなぞすれ
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