ちいち礼を言わねばならないのが情けなかった。いつものように、午後の日射しが執拗にはいって来た。額から流れ落ちる汗が瞼を伝うと、まるで涙を流しているのではないかと、思われた。いつか豹一は、大声で歌を唄っている自分にびっくりした。そうでもしなければ、その機械的な仕事に堪えられなかったのだろうが、動物じみて大声を出している自分がさすがに浅ましかった。
いきなり肩を小突かれた。体が宙を飛んでいるような甘い快感がはっと破れて、にわかに眼の前が明るくなった。立ちながら、うとうと居眠りをしていたらしかった。眼が覚めた拍子に、手は反射的に新聞を畳んでいたが、「居眠りしてる場合やあれへんぜ。しっかりしてや」そう言って、社長はなおも二、三回豹一の肩を小突いた。咄嗟に豹一の頭は、牛乳の瓶をがちゃんと机の上へ敲き割って、そこを飛び出すことを想った。
(こんなに侮辱されても、未だここで働きたいのか? 単にいやなところだというのではない。侮辱されたんだぞ)豹一の眼は久し振りにぎらぎら光って、部屋の中をにらみ廻した。が、ふと社長の妻君がせっせと帯封に糊をつけているのを見た途端、その光はあっけなく消えてしまった。社長の妻君のバサバサした髪の毛の聯想で、母親のことが頭に泛んだからである。
(ここを飛び出せば、当分また失業だぞ、それでもお前は母親の手前平気で居れるというのか?)豹一は握りしめた牛乳の瓶で新聞の折目を押えた。(母親のことを考えたら、自分勝手な気持で行動することは許されないぞ)
突然頭に泛んだこの考えは、しかし豹一自身にも意外だった。今まで自分の行動を支えて来た筈の自尊心を、こんなに容易く黙殺出来ようとは、夢にも思っていなかったのである。
「どうも昨夜《ゆうべ》寝不足でしたもんで――」そう言って、へっへとだらしなく笑っている自分にも、驚いてしまった。さすがに顔は蒼ざめていた。
三
月末、日割勘定で月給を貰った。電車賃や、昼食代を差引くと、いくらも残らない額だった。書潰しの封筒の表に毛利君と書いた月給袋を社長から渡されたとき、さすがになんとなく屈辱を感じた。
(これが欲しさに辛いことを我慢して来たのか?)そう思うと、たまらなかった。(いや、月給は問題外だ。ただ我慢して働くということが俺の義務なのだ)そう思って慰めた。しかし、帰って母親に見せた時の母親の顔で、さすがに労が
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