雁次郎横丁にある天婦羅屋で、二階は簡単なお座敷になっているらしかったが、私はいつも板場の前に腰を掛けて天婦羅を揚げたり刺身を作ったりする主人の手つきを見るのだった。主人は小柄な風采の上らぬ人で、板場人や仲居に指図する声もひそびそと小さくて、使っている者を動かすよりもまず自分が先に立って働きたい性分らしく、絶えず不安な眼をしょぼつかせてチョコチョコ動き、律儀な小心者が最近水商売をはじめてうろたえているように見えたが、聴けばもうそれで四十年近くも食物商売をやっているといい、むっちりと肉が盛り上って血色の良い手は指の先が女のように細く、さすがに永年の板場仕事に洗われた美しさだった。庖丁を使ったり竹箸で天婦羅を揚げたりする手つきも鮮かである。
 私はその手つきを見るたびに、いかに風采が上らぬとも、この手だけで岡惚れしてしまう年増女もあるだろうと、おかしげな想像をするのだったが、仲居の話では、大将は石部金吉だす。酒も煙草も余りやらぬという。併し、若い者の情事には存外口喧しくなく、玄人女に迷って悩んでいる板場人が居れば、それほど惚れているのだったら身受けして世帯を持てと、金を出してやったこともある
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