。もっともあんた方は本を大事にする商売の人ですから、間違いないでしょうが。大事に頼みますよ」
 そんなにくどくどと勿体をつけられて借りると、私は飛ぶようにして家へかえり、天辰の主人がどうしてこれを手に入れたのか、案外道楽気のある男だと思いながら、読み出した。謄写刷りの読みにくい字で、誤字も多かったが、八十頁余りのその記録をその夜のうちに読み終った。
 神田の新銀町の相模屋という畳屋の末娘として生れた彼女が、十四の時にもう男を知り、十八の歳で芸者、その後不見転、娼妓、私娼、妾、仲居等転々とした挙句、被害者の石田が経営している料亭の住込仲居となり、やがて石田を尾久町の待合「まさき」で殺して逃亡し、品川の旅館で逮捕されるまでの陳述は、まるで物悲しい流転の絵巻であった。もののあわれの文学であった。石田と二人で情痴の限りを尽した待合での数日を述べている条りは必要以上に微に入り細をうがち、まるで露出狂かと思われるくらいであったが、しかしそれもありし日の石田の想出に耽るのを愉しむ余りの彼女の描写かと思えば、あわれであった。早く死刑になって石田の所へ行きたいと言っているこの女の、最後の生命が輝く瞬間であり、だからこそその陳述はどんな自然主義派の作家も達し得なかったリアリズムに徹しているのではなかろうか。そしてまた、虚飾と嘘の一つもない陳述はどんな私小説もこれほどの告白を敢てしたことはかつてあるまいと、思われるくらいであった。
 本当に文学のようであった。が、この記録を一篇の小説にたとえるとすれば、そのヤマは彼女が石田の料亭の住込仲居になる動機と径路ではなかろうか、――彼女は石田の所へ雇われる前、名古屋の「寿」という料亭の仲居をしていた。その時中京商業の大宮校長と知り合った、大宮校長は検事の訊問に答えて次のように陳述している。
「……私が最初にあの女に会うたのは昨年の四月の末、覚王山の葉桜を見に行き、『寿』という料亭に上った時です。あの女はあそこの女中だったのです。その時女は、私は夫に死に別れ、叔母の所に預けてある九歳になる娘に養育費を送るために、こういう商売をしているのだと言いましたので、非常に気の毒に思いました。十日程たって今度は娘が死んで東京に帰るとの話でしたので、私は一層同情しました。女が上京すればますます淪落の淵に沈んで行くに違いないと思ったのと、救いがたい悪癖を持っているのに同情したのとで、何とかしてこれを救おうという心情を起し、物質的並に精神的方面より援助を与え彼女を品性のある婦人たらしめようと力を尽したのでした」
 こんな体裁のいいことを言っているが、しかし校長は二度目に「寿」へ行った時、「非常に気の毒に思」った女に酌をさせながら、けしからぬ振舞いに出ようとしている。女は初めは初心らしく裾を押えたりしていたが、やがて何の感情もなく言いなりになった。校長は彼女の美貌と性的魅力に参ってしまったのだ。「救いがたい悪癖」と言っているが、しかしこの悪癖が校長を満足させたのだ。だから上京すると言われて驚き、じゃ時々東京で会うことにしよう。上京した彼女が一先ず落ち着いた所は、ところもあろうに昔彼女が世話になったことのあるいかがわしい周旋屋であった。文部省へ出頭する口実を設けてしばしば上京するたび、宿屋へ呼び寄せて会うていた校長は、さすがに彼女のいわゆる「叔母の家」の怪しさを嗅ぎつけた。校長はまず彼女に触れたあと、急いで手や口を洗うてから、男女の仲は肉体が第一ではない、精神的にも愛し合わねばならん、お前が真面目になるというなら、金を出してやるから料理屋でも開いたらどうだ。校長は女を独占したかったのだ。彼女は何をしても直ぐ口や手を洗う水臭い校長を、肉体的にも精神的にも愛することは出来ないと思ったが、くどくど説教されているうちに、さすがにただれ切った性生活から脱け出して、校長一人を頼りにして、真面目な生活にはいろうと決心した。しかし、料理屋を開くには、もう少し料理屋の内幕や経営法を知って置いた方がよい。そう思って口入屋の紹介で住込仲居にはいった先がたまたま石田の店であった。石田は苦味走ったいい男で、新内の喉がよく、彼女が銚子を持って廊下を通ると、通せんぼうの手をひろげるような無邪気な所もあり、大宮校長から掛って来た電話を聴いていると、嫉けるぜと言いながら寄って来てくすぐったり、好いたらしい男だと思っている内にある夜暗がりの応接間に連れ込まれてみると、子供っぽい石田が分別くさい校長とは較べものにならぬくらい、女にかけては凄い男であった。石田の細君はヒステリーで彼女に辛く当った。なんだい、あんなお内儀と、石田を取ってやるのがいい気味であり、そしてもう石田を細君の手に渡したくなかった。二人の仲はすぐ細君に知れて、彼女は暇を取り、尾久町の待合「まさき」で石
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