…。その方が労がはぶけていいが、しかし……」今書いている千日前の話が一向に進まないのは時代との感覚のズレが気になっているからだとすれば、それ以上にズレている筈の古い原稿を労をはぶいて送るのも如何《いかが》なものだと、私はボソボソ口の中で呟いた。
「今書いてらっしゃるのは……?」
「千日前の大阪劇場の裏の溝の中で殺されていた娘の話だ。レヴュに憧れてね。殺されて四日間も溝の中で転がっていたんだが、それと知らぬレヴュガールがその溝の上を通って楽屋入りをしていたんだ。娘にとっては本望……」
「また殺人事件ですか」呆れていた。
「またとは何だ。あ、そうか、『十銭芸者』も終りに殺されたね」
「いつか阿部定も書きたいとおっしゃったでしょう。グロチックね」
 私の小説はグロテスクでエロチックだから、合わせてグロチックだと、家人は不潔がっていた。
「ああ、今も書きたいよ。題はまず『妖婦』かな。こりゃ一世一代の傑作になるよ」
 家人は噴きだしながら降りて行った。私はそれをもっけの倖いに思った。なぜ阿部定を書きたいのかと訊かれると、返答に困ったかも知れないのだ。所詮はグロチック好みの戯作者気質だと言えば言えるものの、しかしただそれだけではなかった。が、その理由は家人には言えない。
 阿部定――東京尾久町の待合「まさき」で情夫の石田吉蔵を殺害して、その肉体の一部を斬り取って逃亡したという稀代の妖婦の情痴事件が世をさわがせたのは、たしか昭和十一年五月であったが、丁度その頃私はカフェ美人座の照井静子という女に、二十四歳の年少多感の胸を焦がしていた。
 美人座は戎橋の北東詰を宗右衛門町へ折れた掛りにあり、道頓堀の太左衛門橋の南西詰にある赤玉と並んで、その頃大阪の二大カフェであった。赤玉が屋上にムーラン・ルージュをつけて道頓堀の夜空を赤く青く染めると、美人座では二階の窓に拡声機をつけて、「道頓堀行進曲」「僕の青春《はる》」「東京ラプソディ」などの蓮ッ葉なメロディを戎橋を往き来する人々の耳へひっきりなしに送っていた。拡声機から流れる音は警察から注意が出るほど気狂い染みた大きさで、通行人の耳を聾させてまで美人座を宣伝しようという悪どいやり方であった。最初私が美人座へ行ったのは、その頃私の寄宿していた親戚の家がネオンサインの工事屋で、たまたま美人座の工事を引受けた時、クリスマスの会員券を売付けられ、それを貰ったからであるが、戎橋の停留所で市電を降り、戎橋筋を北へ丸万の前まで来ると、はや気が狂ったような「道頓堀行進曲」のメロディが聴えて来た。美人座の拡声機だとわかると、私は急に辟易してよほど引き返そうと思ったが、同行者があったのでそれもならず、赤い首を垂れて戎橋を渡ると、思い切って美人座の入口をくぐった。
 その時の本番《ほんばん》(などといやらしい言葉だが)が静子で、紫地に太い銀糸が縦に一本はいったお召を着たすらりとした長身で、すっとテーブルへ寄って来た時、私はおやと思った。細面だが額は広く、鼻筋は通り、笑うと薄い唇の両端が窪み、耳の肉は透きとおるように薄かった。睫毛の長い眼は青味勝ちに澄んで底光り、無口な女であった。
 高等学校の万年三年生の私は、一眼見て静子を純潔で知的な女だと思い込み、ランボオの詩集やニイチェの「ツアラトウストラ」などを彼女に持って行くという歯の浮くような通いかたをした挙句、静子に誘われてある夜嵐山の旅館に泊った。寝ることになり、私はわざとらしく背中を向けて固くなっていたが、一つにはそれが二人にふさわしいと思ったのだ。それほど静子は神聖な女に見えていたのである。そして暫くじっとしていると、
「どうしたの」白い手が伸びて首に巻きつき、いきなり耳に接吻された。
 あとは無我夢中で、一種特別な体臭、濡れたような触感、しびれるような体温、身もだえて転々する奔放な肢体、気の遠くなるような律動。――女というものはいやいや男のされるがままになっているものだと思い込んでいた私は、愚か者であった。日頃慎ましくしていても、こんな場合の女はがらりと変ってしまうものかと、間の抜けた観察を下しながら、しかし私は身も世もあらぬ気持で、
「結婚しようね、結婚しようね」と浅ましい声を出していた。
 すると静子は涙を流して、
「駄目よ、そんなこと言っちゃ。あたし結婚出来る体じゃないわ」
 そして、自分は神戸でダンサーをしていたときに尼崎の不良青年と関係が出来て、それが今まで続いているし、その後京都の宮川町でダンス芸者をしていた頃は、北野の博奕打の親分を旦那に持ったことがあり、またその時分抱主や遣手《やりて》への義理で、日活の俳優を内緒の客にしたこともあると、意外な話を打ち明けたが、しかしその俳優の名を三人まで挙げている内に、もう静子の顔は女給が活動写真の噂をしている時の軽薄な
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