ふらっと眩暈《めまい》がした咄嗟に、こんな夫婦と隣り合ったとは、なんという因果なことだろうという気持が、情けなく胸へ落ちた。
 翌朝、夫婦はその温泉を発った。私は駅まで送って行った。
「へえ、へえ、もう、これぐらい滞在なすったら、ずっと効目はござりやんす」
 駅のプラットホームで客引きが男に言っていた。子供のことを言っているのだな、と私は思った。
「そやろか」
 男は眼鏡を突きあげながら、言った。そして、売店で買物をしていた女の方に向って、
「糸枝!」
 と、名をよんだ。
「はい」
 女が来ると、
「もう直き、汽車が来るよって、いまのうち挨拶させて貰い」
「はい」
 女はいきなりショールをとって、長ったらしい挨拶を私にした。終ると、男も同じように、糞丁寧な挨拶をした。
 私はなにか夫婦の営みの根強さというものをふと感じた。
 汽車が来た。
 男は窓口からからだを突きだして、
「どないだ(す)。石油の効目は……?」
「はあ。どうも昨夜から、ひどい下痢をして困ってるんです」
 ほんとうのことを言った。
「あ、そら、いかん。そら、済まんことした。竹の皮の黒焼きを煎じて飲みなはれ。下痢にはもってこいでっせ」
 男は狼狽して言った。
 汽車が動きだした。
「竹の皮の黒焼きでっせ」
 男は叫んだ。
 汽車はだんだんにプラットホームを離れて行った。
「竹の皮の黒焼きでっせ」
 男の声は莫迦莫迦しいほど、大きかった。
 女は袂の端を掴み、新派の女優めいた恰好で、ハンカチを振った。似合いの夫婦に見えた。



底本:「定本織田作之助全集 第二巻」文泉堂出版
   1976(昭和51)年4月25日初版発行
   1995(平成7)年3月20日第3版
初出:「大阪文学」
   1942(昭和17)年1月号
入力:奥平 敬
校正:小林繁雄
2008年11月16日作成
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