と出掛けて行きましたの」
 その隙に話しに来た、――そんなことをされては困ると思った。私はむつかしい顔をした。
 女はでかい溜息をつき、
「あの男にはほんまに困ってしまいます」
 と、言って分厚い唇をぎゅっと歪めた。
「――あの人、なんぞ私のこと言いましたか。どうせ私の悪ぐち言うたことやと思います。それがあの人の癖なんです。誰にでも私の悪ぐちを言うてまわるのんです。なんせ肚の黒い男ですよって、なにを言うか分れしません。けど、あんな男の言うこと信用せんといて下さい。何を言うても良え加減にきいといて下さい」
「いや、誰のいうことも僕は信用しません」
 全く、私は女の言うことも男の言うことも、てんで身を入れてきかない覚悟をきめていた。
「それをきいて安心しました」
 女は私の言葉をなんときいたのか、生真面目な顔で言った。私はまだこの女の微笑した顔を見ていない、とふと思った。
 そして、私もこの女の前で一度も微笑したことはない……。
 女はますます仮面《めん》のような顔になった。
「ほんまに、あの人くらい下劣な人はあれしませんわ」
「そうですかね。そんな下劣な人ですかね。よい人のようじゃありませんか」
 その気もなく言うと、突然女が泪をためたので驚いた。
「貴方《おうち》にはなにも分れしませんのですわ。ほんまに私は不幸な女ですわ」
 うるんだ眼で恨めしそうに私をにらんだ。視線があらぬ方へそれている。それでますます恨めしそうだった。
 私は答えようもなく、いかにも芸のなさそうな顔をして、黙っていた。
 すると、女の唇が不気味にふるえた。そして大粒の泪が蒼黝い皮膚を汚して落ちて来た。ほんとうに泣き出してしまったのだ。
 私は頗る閉口した。どういう風に慰めるべきか、ほとほと思案に余った。
 女は袂から器用に手巾をとりだして、そしてまた泣きだした。
 その時、思いがけず廊下に足音がきこえた。かなり乱暴な足音だった。
 私はなぜかはっとした。女もいきなり泣きやんでしまった。急いで泪を拭ったりしている。二人とも妙に狼狽してしまったのだ。
 障子があいて、男がやあ、とはいって来た。女がいるのを見て、あっと思ったらしかったが、すぐにこにこした顔になると、
「さあ、買うて来ましたぜ」
 と、新聞紙に包んだものを、私の前に置いた。罎のようだったから、訳がわからず、変な顔をしていると、男は上機嫌
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