しんば読めても文芸雑誌など手にすることもあるまいなどというのは慰めにも弁解にもならない。実に済まぬことをした想いが執拗に迫り、と金[#「と金」に傍点]の火の粉のように降り掛るのであった。しかも、悲劇の人だ。いや、坂田を悲劇の人ときめてかかるのさえ無礼であろう。不遜であろう。この一月私の心は重かった。
 それにもかかわらず、今また坂田のことを書こうとするのは、なんとしたことか。けれども、ありていに言えば、その小説で描いた坂田は私であったのだ。坂田をいたわろうとする筆がかえってこれでもかこれでもかと坂田を苛めぬく結果となってしまったというのも、実は自虐の意地悪さであった。私は坂田の中に私を見ていたのである。もっとも坂田の修業振りや私生活が私のそれに似ているというのではない。いうならば所謂坂田の将棋の性格、たとえば一生一代の負けられぬ大事な将棋の第一手に、九四歩突きなどという奇想天外の、前代未聞の、横紙破りの、個性の強い、乱暴な手を指すという天馬の如き溌剌とした、いやむしろ滅茶苦茶といってもよいくらいの坂田の態度を、その頃全く青春に背中を向けて心身共に病み疲れていた私は自分の未来に擬したく思ったのである。九四歩突きという一手のもつ青春は、私がそうありたいと思う青春だったのだ。しかもこの一手は、我の強気を去らなくては良い将棋は指せないという坂田一流の将棋観にもとづいたものでありながら、一方これくらい坂田の我を示す手はないのである。いわば坂田の将棋を見てくれという自信を凝り固めた頑固なまでに我の強い手であったのだ。大阪の人らしい茶目気や芝居気も現れている。近代将棋の合理的な理論よりも我流の融通無碍を信じ、それに頼り、それに憑かれるより外に自分を生かす道を知らなかった人の業《ごう》のあらわれである。自己の才能の可能性を無限大に信じた人の自信の声を放ってのた[#「のた」に傍点]打ちまわっているような手であった。この自信に私は打たれて、坂田にあやかりたいと思ったのだ。いや私は坂田の中に私の可能性を見たのである。本当いえば、私は佐々木小次郎の自信に憧れていたのかも知れない。けれども佐々木小次郎の自信は何か気負っていたらしい。それに比べて坂田の自信の方はどこか彼の将棋のようにぼんやりした含みがある。坂田の言葉をかりていえば、栓ぬき瓢箪のようにぽかんと気を抜いた余裕がある。大阪の性格であろう。やはり私は坂田の方を選んだ。つまりは私が坂田を書いたのは、私を書いたことになるのだ。してみれば、私は自分を高きに置いて、坂田を操ったのではない。私は坂田と共に躍ったのだ。それがせめてもの言い訳けになってくれるだろうか。
 ともかく、私は坂田の青春や自信にぴしゃりと鞭を打たれたのである。昭和十二年の二月のことである。ところが、坂田はその自信がわざわいして、いいかえれば九四歩突きの一手が致命傷となって、あっけなく相手の木村八段に破れてしまった。坂田の将棋を見てくれという戦前の豪語も棋界をあっと驚かせた問題の九四歩突きも、脆い負け方をしてみれば、結局は子供だましになってしまった。坂田の棋士としての運命もこの時尽きてしまったかと思われた。私は坂田の胸中を想って暗然とした。同時に私はひそかにわが師とすがった坂田の自信がこんなに脆いものであったかと、だまされた想いにうろたえた。まるでもぬけの殻を掴まされたような気がし、私の青春もその対局の観戦記事が連載されていた一月限りのものであったかと、がっかりした。
 ところが、南禅寺でのその対局をすませていったん大阪へ引きあげた坂田は、それから一月余りのち、再び京都へ出て来て、昭和の大棋戦と喧伝された対木村、花田の二局のうち、残る一局の対花田戦の対局を天龍寺の大書院で開始した。私は坂田はもう出て来まいと思っていた。対木村戦であれほど近代棋戦の威力を見せつけられて、施す術もないくらい完敗して、すっかり自信をなくしてしまっている筈ゆえ、更に近代将棋の産みの親である花田に挑戦するような愚に出まいと思っていたのである。ところが、無暴にも坂田は出て来た。その自信はすっかり失われていたわけではなかったのである。いや、それどころか、坂田は花田八段の第一手七六歩を受けた第一着手に、再び端の歩を一四歩と突いたのである。さきには右の端を九四歩と突き、こんどは左の端を一四歩と突く。九四歩は最初に蛸を食った度胸である。一四歩はその蛸の毒を知りつつ敢て再び食った度胸である。無論、後者の方が多くの自信を要する。なんという底ぬけの自信かと、私は驚いた。
 けれども、その一四歩がさきの九四歩同様再び坂田の敗因となってみると、もう坂田の自信も宿命的な灰色にうらぶれてしまった。人びとは「こんど指す時は真中の歩を突くだろう」と嘲笑的な蔭口をきいた。坂田の棋力は初段ぐらい
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