ろう。やはり私は坂田の方を選んだ。つまりは私が坂田を書いたのは、私を書いたことになるのだ。してみれば、私は自分を高きに置いて、坂田を操ったのではない。私は坂田と共に躍ったのだ。それがせめてもの言い訳けになってくれるだろうか。
 ともかく、私は坂田の青春や自信にぴしゃりと鞭を打たれたのである。昭和十二年の二月のことである。ところが、坂田はその自信がわざわいして、いいかえれば九四歩突きの一手が致命傷となって、あっけなく相手の木村八段に破れてしまった。坂田の将棋を見てくれという戦前の豪語も棋界をあっと驚かせた問題の九四歩突きも、脆い負け方をしてみれば、結局は子供だましになってしまった。坂田の棋士としての運命もこの時尽きてしまったかと思われた。私は坂田の胸中を想って暗然とした。同時に私はひそかにわが師とすがった坂田の自信がこんなに脆いものであったかと、だまされた想いにうろたえた。まるでもぬけの殻を掴まされたような気がし、私の青春もその対局の観戦記事が連載されていた一月限りのものであったかと、がっかりした。
 ところが、南禅寺でのその対局をすませていったん大阪へ引きあげた坂田は、それから一月余りのち、再び京都へ出て来て、昭和の大棋戦と喧伝された対木村、花田の二局のうち、残る一局の対花田戦の対局を天龍寺の大書院で開始した。私は坂田はもう出て来まいと思っていた。対木村戦であれほど近代棋戦の威力を見せつけられて、施す術もないくらい完敗して、すっかり自信をなくしてしまっている筈ゆえ、更に近代将棋の産みの親である花田に挑戦するような愚に出まいと思っていたのである。ところが、無暴にも坂田は出て来た。その自信はすっかり失われていたわけではなかったのである。いや、それどころか、坂田は花田八段の第一手七六歩を受けた第一着手に、再び端の歩を一四歩と突いたのである。さきには右の端を九四歩と突き、こんどは左の端を一四歩と突く。九四歩は最初に蛸を食った度胸である。一四歩はその蛸の毒を知りつつ敢て再び食った度胸である。無論、後者の方が多くの自信を要する。なんという底ぬけの自信かと、私は驚いた。
 けれども、その一四歩がさきの九四歩同様再び坂田の敗因となってみると、もう坂田の自信も宿命的な灰色にうらぶれてしまった。人びとは「こんど指す時は真中の歩を突くだろう」と嘲笑的な蔭口をきいた。坂田の棋力は初段ぐらい
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